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高畑耕治
高畑耕治

2014年09月29日

詩想 こころの足跡(三二)

 ツイッターに記した私の折おりの率直な想いから、詩にはならない散文だけれど記憶したい言葉を、詩想として束ねています。

 ☆

国家の名誉なんて自然に口にでてくるひとは、そのために庶民の人命なんて、肥やしくらいな感覚しかないから、おぞましく、いとう。

 ☆

一市民として。いまの政権、牛耳ってるつもりの得意げな輩は、自分、自分たちが正しい、国民を自分、自分たちが、守り、導くと、時代錯誤、傲慢に、耳を傾けることも知らず、うそぶけるなんて、裸の王さま。弱い立場に置かれてしまった人間のことなんて考え感じもできない物。厭う。退場させたい。

 ☆

朝日をたしなめられるつもりでいる、首相という、役職にいるひと、どんなに多くの人に、厭われている嘘つきか、世界中に恥をさらし、口にしたがる「この国を辱めている」のは、あなた自身だと、わからない、だけの人でした。さようなら、とだけ、はやく言いたい。

 ☆

藤原俊成は歌論で、技巧が勝ちすぎ目につく歌をよいとはしていません。彼の和歌は、とてもやさしい言葉で抒情を心のままに歌っています。彼が西行の歌に通い合うものを感じたのがわかる気がします。歌論について三回書いたあと、俊成の恋歌と挽歌から私の好きな歌について二回、エッセイを書きます。

 ☆

権力者を厭うわたしを厭うひとに。おもねたら、詩は死ぬよ。奴隷だよ。

 ☆

はぶりのいい、ほこらしげに、いばるやからに、すりよるものは、わたしは、だきらい。こころ、ないから。好きでもないものに、へらへらわらうな。笑顔は、恋人、愛人、愛するひと、子どもにだけ、心こめ、そそげ。

 ☆

生活のための労働で疲労がたまると、灰色の延べ板、鉄板になったようで、なにも感じられない。すりへった、消耗したとだけ、無表情で、おもう。生きるため、がまん。

 ☆

農民だった祖父母を尊敬し、労働者だった父母を尊敬する。たいへんだけれども、誇りを持ち、人間らしくあろうとして、育ててくれた。だから、生活に負けられないし、生きること捨てない。

 ☆

疲れたと、ひとりなんどもつぶやくことは、回復への、自浄作用がある気がして。なんどもなんども、つぶやく。
自浄作用というより、解毒剤か?

 ☆

疲労は、ファンタジーへの、翼もぎとる。翔べない。翼癒えるまで、眠れる森に、横たわりたい。動物たちだけはきっと、気にしてくれる。

 ☆

反骨。
調べないから意味わからない変な文字の組合せ言葉だ。
でもずっと、好きだ。

 ☆

クラゲのように生きてきた私だけど、死ぬまで、反骨精神だけは失わない。

  


  • Posted by 高畑耕治 at 19:28

    2014年09月27日

    歌には何しにか韻はまことにあるべき『古来風躰抄』藤原俊成(三)

     日本の詩歌、和歌をよりゆたかに感じとりたいと、代表的な歌学書とその例歌や著者自身の歌を読み、感じとれた私の詩想を綴っています。
    『千載和歌集』の撰者、藤原俊成式子内親王に贈った歌論『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』に記された、彼の和歌、詩歌の本質についての想いへの共感を記します。最終回です。

     今回引用した箇所での彼の言葉も、歌のほんとうの姿をとらえようとする俊成のまなざしの強さを感じます。
    歌学者が、外来の漢詩を模倣して、舶来品の知識をみせびらかし、「歌病(かへい)」(歌をつくるうえでの決まりごと、禁制、犯してはならないルール)を、むりやり、日本語の詩歌に当てはめて、詩学、歌論、批評を、権威ぶって論じていることに対して、俊成はずばりと言い放ちまず。
     「見苦しく聞え侍る」、見苦しいと。
     そして、日本語の詩歌の本質について述べます。
     「まことには、歌には何しにか韻はまことにあるべき。」実際には、歌には決して韻は本当はないのである、と。
     
     古代から今に至るまで、海外の文芸思潮に学び、感じとろうとすることは心豊かなことであっても、憧憬の強さの余りに、模倣し、権威づけに利用する評論家、学者に、次のくだりは、聞かせたい言葉です。

     中国の学問もしない者が、物知り顔をしようと思って、形どおり漢詩に関する書物の一端を年老いた後に習って、「毛詩に言っているのは」「史記に言っているのは」など申すということは、本当に見苦しいことである。

     そのうえで、彼が、日本語で詠む詩歌の本質について語る言葉は、とてもシンプル、率直、ありのままです。
     「歌は、ただ構(かま)へて心姿(こころすがた)よく詠まんとこそすべきことに侍れ。」歌は、ひとえに心にかけて「心姿」を上手に詠もうとすべきことである。

     これだけでは、とらえどころのないような言葉ですが、「古来風躰抄」で俊成は、彼がよいと心に感じる、数多くの和歌を書きうつし、感じ、伝えています。

     美しいものは、批評し論じようとても、指のあいだをすりおちてしまいます。美しいものは、そのものを、みつめ、感じとるとき、はじめてそのよさが心に感じとられ、心をふるわせてくれます。
     和歌、詩歌もおなじだということ、歌そのものを読み、感じ、心に響かせ、愛することの大切さを、「古来風躰抄」で俊成は、伝えてくれます。

    ●以下は、出典からの引用です。

    また、この近き頃承(うけたまは)れば、長歌にも、短歌・反歌にも、「韻(いん)の字」などと申すなる、いと見苦しく聞え侍ることなり。詩の病など申すことに準(たずら)へて式を作り、病を立てなどする程(ほど)に、「韻の字の」など申すことは、ただ歌によりては、上(かみ)の五七五の終りの句、下(しも)の七七の句の終りの文字などを、「韻の字に同じ文字置けるは憚るべし」などいふばかりなり。まことには、歌には何しにか韻はまことにあるべき。(略)
    詩の韻に準(たずら)へて、果ての文字のこといはんとて、「韻の字の」などうち申すばかりこそあるを、まことしくほどなき三十一字の歌のうちなどに、胸の句には五七の七の句の終り、中の五字の終りなどを、「韻の字の」など申すらんことども、いといと見苦しきことなり。漢家の学問などもせぬ者の、もの知り顔せんとて、形(かた)のごとく文の端々(はしばし)など老いの後(のち)習ひて、「毛詩にいへるは」「史記にいへるは」など申すらんこと、いといと見苦しく侍り。歌は、ただ構(かま)へて心姿(こころすがた)よく詠まんとこそすべきことに侍れ。

      <現代語訳>
    また、近頃伺ったところでは長歌にも、短歌・反歌にも、「韻の字の」など申すとかいうのは、全く見苦しく思われることである。漢詩の病などと申すことに準じて和歌式を作り、歌病を立てたりする間に、「韻の字の」など申すことは、ひとえに歌については、上野五七五の句の終りの文字、下の七七の句の終りの文字などを、「韻の字に同じ文字を置いたのはさけるべきである」などと言っているだけである。実際には、歌には決して韻は本当はないのである。(略)
    漢詩の韻に準じて、句の終りの文字のことを言おうとして、「韻の字の」などと申すだけのことであるが、真実らしくわずかな分量である三十一文字の歌の中に、第二句では五七の七の句の終りの文字、第三句の五字の終りの文字などを、「韻の字の」など申すとかいうことは、本当に見苦しいことである。中国の学問もしない者が、物知り顔をしようと思って、形どおり漢詩に関する書物の一端を年老いた後に習って、「毛詩に言っているのは」「史記に言っているのは」など申すということは、本当に見苦しいことである。歌は、ひとえに心にかけて「心姿」を上手に詠もうとすべきことである。

    出典:「古来風躰抄」『歌論集 日本古典文学全集50』(有吉保校注・訳、1975年、小学館)

    次回は、藤原俊成自身の恋歌を感じとります。   


  • Posted by 高畑耕治 at 10:20

    2014年09月25日

    口惜しく人に侮らるる『古来風躰抄』藤原俊成(二)

     日本の詩歌、和歌をよりゆたかに感じとりたいと、代表的な歌学書とその例歌や著者自身の歌を読み、感じとれた私の詩想を綴っています。
     前回に続き、『千載和歌集』の撰者、藤原俊成式子内親王に贈った歌論『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』に記された、彼の和歌、詩歌の本質についての想いへの共感を記します。

     引用箇所で、彼のあまりに正直な、あからさまな告白は、日本語の詩歌を創る一人の者として、胸に痛く響きます。彼は言い切ってしまいます。和歌は仮名四十七文字を用いて三十一字に詠むことのほかには、決まりごとなんてなんにもないと。このひとには本質を見据えるまなざしがあって、すごいなと思います。

     そこで彼が対比しているように、漢詩や(西欧の)定型詩は、誰にでもわかる型、約束事があるので、その型に外れているかいないか、上手く活かしているか、鑑賞、評価しやすい。稚拙が誰にでもわかる。その通りだと、私は思います。このことを、言い換えれば、型にはめさえすればいいのだから、誰にでも作りやすい、と思います。

     それに比べて和歌、詩歌は、あまりに型、決まりごとがおおまかすぎて、と俊成は歎きます。「侮らるる」、人に軽んじられると。 けれども、それに付け加えた言葉こそ、俊成の詩魂がこめられていると私は共感します。
     和歌は「大空が無限であるように、限りなく、大海の果ても際限もわからないように、果ても極みもわからないもの」、だからこそ、一生をかけるのに値する深い境地があるのだと。

     日本の詩歌は、和歌に限らず、古代歌謡から、連歌、俳句、文語定型詩、口語自由詩まで、定型と呼べるほどの型はありません。容易であるようにみえ、残念にも人に軽んじられます。
     でも、その型のゆるやかさは、日本語の本来の資質であり、無限の自由と可能性を孕んだ創作空間だと、私は思います。生涯をかけるにあたいすると。

     彼の和歌、詩歌に対する想い、詩歌に生きた生涯を貫いていた詩魂に私は励ましを感じます。

    ●以下は、出典からの引用です。

    大方、歌の善(よ)し悪(あ)し定むる事は、先にも申したるやうに、言葉を以(も)て申し述べ難し。漢家の詩など申すものは、その躰限りあり、(略)なかなか善し悪しあらはに見えて、流石におして人もえ侮(あなづ)らぬものなり。しかるに、この倭歌(やまとうた)は、ただ仮名の四十七字のうちより出でて、五七五七七の句、三十一字とだに知りぬれば、易(やす)きやうなるによりて、口惜しく人に侮らるる方(かた)の侍るなり。なかなか深く境(さかひ)に入りぬるにこそ、虚(むな)しき空の限りもなく、わたの原波の果(はたて)も究(きわ)めも知らずは覚ゆべき事には侍るべかめれ。

      <現代語訳>
    大体、歌の道において良い悪いを決めることは、先にも申し上げたように、言葉では説明しにくい。漢家の詩などよ申すものは、その詩の形態に法則があって、(略)すべて法則が定まっているために、かえって良い悪いがはっきりとわかり、それだけに押し切って人も軽視できないものである。ところが、この和歌は、ただ仮名の四十七字のうちで詠んで、五七五七七の五句で、三十一字とさえ知ってしまうと、歌を詠むことが容易であるようにみえるために、残念にも人に軽んじられる点があることである。かえって深い和歌の境地にはいってしまうと、大空が無限であるように、限りなく、大海の果ても際限もわからないように、果ても極みもわからないものと思わなければならないことのようである。

    出典:「古来風躰抄」『歌論集 日本古典文学全集50』(有吉保校注・訳、1975年、小学館)

     次回は、『古来風躰抄』の俊成の言葉、最終回です。

      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:20

    2014年09月23日

    HPの新しい詩を、長篇、中篇、掌篇、短詩にまとめました。

     私の詩のホームページ『愛のうたの絵ほん』の詩集未収録の新しい詩を、長篇、中篇、掌篇、短詩のページに分けまとめて、読んで頂きやすくしました。

     私は1行の短詩から300行の長い詩まで書きます。作品には作品にふさわしい姿があります。

     けれど、読者としての私自身、短編集を読みたいとき、長編の世界に入り込みたいとき、そのときどきで変わります。
    ですから、お気持ち、気分で、読みたいページにある作品を、お読み頂けたらと、願います。

     以下をクリックして頂きますと、HPの4つのページの扉が開きます。

    ・ 新しい詩 長篇詩:101行~

    ・ 新しい詩 中篇詩:51~100行

    ・ 新しい詩 掌篇詩:26~50行

    ・ 野の花・ちいさなうた 短詩:1~25行



    お好きな作品を、お読み頂けましたら、とても嬉しく思います。   


  • Posted by 高畑耕治 at 19:40

    2014年09月23日

    ちいさな滴「かなしい ともだちに」、HPに零しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、ちいさなうたの滴「かなしい ともだちに・ひと滴」、「かなしい ともだちに・ふた滴」を零し、沁み込ませました。

        かなしい ともだちに・ひと滴
        かなしい ともだちに・ふた滴

    (詩のタイトルをクリックするとリンクしているHPをお読み頂けます)

    秋の夜、こころに沁み込ませました。
      


  • Posted by 高畑耕治 at 00:05

    2014年09月21日

    新しい詩「お月さま恋うた」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「お月さま恋うた」を、公開しました。
    (クリックでお読み頂けます)。

      詩「お月さま恋うた」
        十五夜、無月 (・おんがく ・きもち ・はねます)
        十六夜、月光 (・恋うた ・見あげれば ・合唱)

    お読みくだされば、とても嬉しく思います。  


  • Posted by 高畑耕治 at 10:00

    2014年09月20日

    詩人・亜久津歩、詩4篇をHPで紹介しました。

     私のホームページの「好きな詩・伝えたい花」に、詩人・亜久津歩(あくつ・あゆむ)さんの詩4篇を紹介させて頂きました。


      詩「 命綱 1 」、詩「 命綱 3 ―友人Kに感謝を 」、詩「 粉雪の舞う夜に 」、詩「 がんばれ 」                                              (クリックしてお読み頂けます)。


     亜久津歩さんの詩集『いのちづな うちなる”自死者”と生きる』にまとめられた詩に込められた想いはとても強く、その切実さに私は読むと、涙が流れます。一読者として、心に似通うものがあるからだとしても、その感情を揺り動かす言葉に、詩が、息づいているからだということは、確かだと思います。
     詩は、言葉による芸術だから、言葉による表現をその資質から選ばされた詩人は、言葉でしか伝えずにはいられない想いを抱く人間です。自分自身との独語の場合でさえも、必ず、自分ではない人を求め、伝えずにはいられない言葉で表現します。その真率さだけが、詩人のあかしだと私は思います。
     既にある”詩らしい形”に捉われない感性の若さ、しなやかな言語感覚が生みだす自由な詩の姿は新鮮で心を目覚めさせてくれます。

     お読み頂けましたら、嬉しいです。   


  • Posted by 高畑耕治 at 10:28

    2014年09月18日

    艶にもあはれにも聞ゆる『古来風躰抄』藤原俊成(一)

     日本の詩歌、和歌をよりゆたかに感じとりたいと、平安時代からの代表的な歌学書とその例歌や著者自身の歌を読み、感じとれた私の詩想を綴っています。

     今回からは、藤原俊成が1197年頃執筆し式子内親王に贈った『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』です。俊成は、第七代勅撰集『千載和歌集』撰者で、藤原定家の父です。
     引用箇所は、俊成の、和歌についての考えが述べられている箇所です。あわせて、同じ考えを繰り返し述べたうえで、さらに補足している「慈鎮和尚自歌合」判詞(1198年頃)についても、感じとれた私の詩想を記します。

    1.『古来風躰抄』

     俊成は和歌について、「歌はただ声に出して読んだり、抑揚をつけて朗詠したりした時に、何となく艶にもあわれにも感じられることがあるものであろう。」と述べます。「朗詠する時の声に伴う韻律によって、良くも悪くも感じとられるものである。」と。
     言葉の音楽性、調べ、さらに詠みあげる声調が、歌の良し悪しをきめる、本質的なものであると。
     私も詩歌にとって、言葉の音楽性は、生命力だと思います。美しいと心に響いてくる詩歌は、言葉の調べそのものが美しい音楽です。

    ●以下は、出典1からの引用です。

    歌のよきことをいはんとては、四条大納言公任卿は金の玉の集と名付け、通俊(みちとし)卿の後拾遺の序には、「ことば縫物(ぬもの)のごとくに、心海(うみ)よりも深し」などと申しためれど、必ずしも錦縫物(にしきぬもの)のごとくならねども、歌はただよみあげもし、詠(えい)じもしたるに、何(なに)となく艶(えん)にもあはれにも聞(きこ)ゆる事のあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきて善(よ)くも悪(あ)しくも聞ゆるものなり。

      <現代語訳>
     歌のすばらしいことを言おうとして、四条大納言公任卿は、自分の編纂した撰集に金玉集と名付け、
    通俊卿は後拾遺の序文において、「表現は刺繍(ししゅう)のように華やかで、内容は海よりも深い」などと言っているようだが、必ずしも錦地のように美しく飾りたてなくても、歌はただ声に出して読んだり、抑揚をつけて朗詠したりした時に、何となく艶にもあわれにも感じられることがあるものであろう。もともと詠歌と言って、朗詠する時の声に伴う韻律によって、良くも悪くも感じとられるものである。

    2.「慈鎮和尚自歌合」判詞

     俊成は、調べ、音楽性が、和歌の本質といえるものだとの考えを述べたうえで、さらに踏み込み、次のように述べます。
     「よき歌になりぬれば、その詞・姿の外に景気の添ひたる様なる事のあるにや。」
    景気は現在使われている経済での意味ではなく、ここでは、「言語によって喚起される視覚的映像、絵画的イメージ。」を意味しています。
     優れた詩歌は、言葉による音楽であると同時に、言葉による絵画であると。私はこの詩歌観に、深く共鳴します。
    彼は、言葉により和歌から立ち昇る「視覚的映像、絵画的イメージ」の具体例として、「春の花のあたりに霞のたなびき、秋の月の前に鹿の声を聞き、垣根の梅に春の風の匂ひ、嶺の紅葉に時雨のうちそそぎなどするやう」を思い描きます。詩歌は、このような美しい情景、絵画、映像を、心象風景として、心に呼び起こしてくれる、美しく描き出し、見せてくれると。

     詩を愛する読者の方なら、言葉の音楽性も、イメージの絵画性も、ともにその美しさを、感じているからこそ、詩が好きで、読みたいと、自然に感じていると、私は思います。

     とても素朴、単純なことなのですが、あたりまえにそれを認めるのは、逆に難しいことでもあります。特に「詩はこいういうものでなければならない」、「こういうレベルになければ現代詩とよべない」といった理論づけ、批評の権威づけをしたがる、詩運動、流派、ジャーナリスティックな商業主義べったりの書き手による詩論、歌論ほど、偏狭になりがちで、このような詩歌の本質を見失いがちです。

     藤原俊成には、本質を見据える目があります。そのことを、次回以降、もう少し、掘り下げていきます。

    ●以下は、出典2からの引用です。

     大方、歌は必ずしもをかしき節を云ひ、事の理を云ひきらんとせざれども、もとより歌と云ひて、ただ読みあげたるにも、うち詠めたるにも、何となく艶にも幽玄にも聞ゆることあるなるべし。よき歌になりぬれば、その詞・姿の外に景気の添ひたる様なる事のあるにや。たとへば春の花のあたりに霞のたなびき、秋の月の前に鹿の声を聞き、垣根の梅に春の風の匂ひ、嶺の紅葉に時雨のうちそそぎなどするやうなる事の、泛(うか)びて添へるなり。常に申すやうには侍れど、かの「月やあらぬ春や昔の」といひ、「掬(むす)ぶ手の滴に濁る」など云へる也。何となくめでたく聞ゆるなり。(十禅師・十五番)

     <頭注>
    月やあらぬ春や昔の―「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(古今集・恋五・業平、伊勢物語)
    掬(むす)ぶ手の滴に濁る―「掬(むす)ぶ手の滴に濁る山の井のあかでも人に別れぬるかな」(古今集・離別、貫之)
     
     <歌論用語>
    「景気」言語によって喚起される視覚的映像、絵画的イメージ。

    出典1:「古来風躰抄」『歌論集 日本古典文学全集50』(有吉保校注・訳、1975年、小学館)
       :「歌論用語」、同上。
    出典2:『日本詩歌選 改訂版』(古典和歌研究会編、1966年、新典社)




      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:28

    2014年09月15日

    新しい詩「あなたがいる」、「いつまでも」、「ないて」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」の「野の花・ちいさなうた」に新しい詩の花が咲きました。
                                  (クリックでお読み頂けます)

    ・野の花・ちいさなうた

    詩 「あなたがいる

    詩 「いつまでも

    詩 「ないて

    道ばたの小さな野のうたの花ですが、お読み頂けましたら、とても嬉しく思います。
      


  • Posted by 高畑耕治 at 10:28

    2014年09月14日

    詩人・中村純、詩3篇をHPで紹介しました。

     私のホームページの「好きな詩・伝えたい花」に、詩人・中村純(なかむら・じゅん)さんの詩3篇を紹介させて頂きました。

      詩「海の家族」、「生まれなかったあなたへ」、「愛し続ける者たちへ」
                                                  (クリックしてお読み頂けます)。

     中村純さんの眼差しはいのちをまっすぐにみつめています。
     出産の時、生まれくる胎児とともに感じた体と心の経験の時をとらえた詩は、想像では書けない、その時を生きた女性、母となった女性であり、感受性ゆたかな詩人にしか捉えられない痛みと畏怖と喜びが、あふれていて、美しく心うたれます。
     そのような彼女だからこそ、生み育てることができなかった女性、産まれることを祝ってもらえなかったいのちの、深い痛みを、自分のこととして書かずにはいられない。産まれることはできたけれど、育くんでもらえず、社会に守られずに失われたいのちの声、幼く弱い者の、押し殺された声、問いかけを、聴き取り、伝えずにはいられないことが、心に迫ってきます。心を揺り動かします。
      強く、優しい、人間の詩です。

     お読み頂けましたら、嬉しいです。

      


  • Posted by 高畑耕治 at 10:20

    2014年09月13日

    新しい詩「夕焼け、おもかげ」、「開かれて、息」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」の「野の花・ちいさなうた」に新しい詩の花が咲きました。
                                  (クリックでお読み頂けます)

    ・野の花・ちいさなうた

    詩 「夕焼け、おもかげ

    詩 「開かれて、息

    道ばたの小さな野のうたの花ですが、お読み頂けましたら、とても嬉しく思います。
      


  • Posted by 高畑耕治 at 10:28

    2014年09月11日

    小町、心の花『古今和歌集』の恋歌(五)

      『古今和歌集』の巻第十一から巻第十五には、恋歌が一から五にわけて編まれています。五回に分けてそのなかから、私が好きな歌を選び、いいなと感じるままに詩想を記しています。

     平安時代の歌論書についてのエッセイをいま並行して書いていますが、優れた歌論書、歌人に必ず感じるのは、彼自身が好きな良いと感じた多くの歌をいとおしむように、伝えようとする熱情です。
     なぜなら、好きな歌を伝えることは、彼自身の心の感動を響かせることでもあるからです。詩歌を愛する者にとって、それ以上の歓びはないように私は思います。

     今回は五回目、最終回です。一首ごとに、出典からの和歌と<カッコ>内の現代語訳の引用に続けて、☆印の後に私の詩想を記していきます。
     よみ人知らず、の歌が多くなったのは、好きな歌を選んだ結果で、意識的にではありません。心に響く歌を作者の著名度にとらわれずに選びました。


      恋歌五 (続き)

    757 よみ人知らず
    秋ならで置く白露は寝覚(ねざ)めする我が手枕(たまくら)の雫(しづく)なりけり
    <秋でもないのに置いている白露は、恋の思いのつらさに夜半に寝覚めをする私の手枕の袖にかかる、涙の雫だったよ。>
    ☆ 素直な歌です。「白露」と「雫」は、涙の比喩としての意味、イメージで映像が重なるとともに、「しらつゆ SIraTUyU」「しずく SIDUkU」と似通う音でも響きあい、揺らめきあっています。

    760 よみ人知らず
    あひ見ねば恋こそまされ水無瀬川(みなせがは)なにに深めて思ひそめけむ
    <逢わないでいると恋しさがますますつのることだ。地下深く流れる水無瀬川ではないが、どうして私は心に深くあの人を恋い慕うようになったのだろうか。>
    ☆ 水無瀬川という比喩、地下深く流れている川のイメージが、心に深く恋い慕う思いと溶け合っていて、心に響きます。逢えないと恋しさがつのるという思いも、とどまることない流れが泉となりあふれだすのだと、自然に感じられて、心に響きます。

    772 よみ人知らず
    来(こ)めやとは思ふものか蜩(ひぐらし)の鳴く夕暮れは立ち待たれつつ
    <来てはくれないと思うものの、蜩がなく夕暮になると、つい外まで立っていっては待つということを繰り返している。>
    ☆ 逢えない悲しみを胸に抱いて、夕暮れ、ふりそそぐヒグラシの声をあびて佇む姿、情景が心に鮮明に浮かんできます。共感の想いを重ねていると、いつしかカナカナの声に包まれながら私が哀しく佇んでいる気持ちになります。

    775 よみ人知らず
    月夜には来ぬ人待たるかき曇り雨も降らなむわびつつも寝む
    <こんな月の美しい夜には通って来ない人が思わず待たれてしまう。いっそすっかり曇って雨でも降ればよい。そうすれば、つらくてもあきらめて寝るだろうから。>
    ☆ 月夜に愛する人をより強く想い、待つ気持ちがつのるのは、月のひかりが、澄んでいて、美しいから、心あらわれ、美しいもの、愛するひとを、求めずにいられなくなる、心素直になってしまうからだと、この歌に感じます。その想いがかなわないのなら、と自暴自棄になる気持ちは、とてもよくわかって、共感します。

    797 小町
    色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける
    <それと色にも現れないでいて、あせていってしまうものは、世の中の人の心という花だったよ。>
    ☆ 「移ろふもの」、それは「人の心の花」。静かな嘆きが、とても悲しく心に響く歌です。小野小町は、残され伝わる歌は限られ少ないけれども、心を知る歌人だと、私は敬愛しています。

    805 よみ人知らず
    あはれとも憂しとも物を思ふ時などか涙のいとなかるらむ
    <つくづく恋しく思ったり、また、つらいと恨めしく思ったり、あの人のことを恋い慕ってあれこれと物思いにふける時、どうしてこんなに涙がとめどなく流れるのだろう。>
    ☆ とても素直な想いが涙となって清らかに流れるようです。「などか」、「なみだ」、「なかる」の「なNA」の音が涙のひかる滴のように響きます。末尾の「るらむ RuRan(mu)」の子音R音も、流れを感じさせる音色です。「あはれ」という詩句の強さも感じます。詩歌は「あはれ」の芸術、この歌も「あはれ」に美しく、あはれに染め上げられています。

    812 よみ人知らず
    逢ふことのもはら絶ぬる時にこそ人の恋しきことも知りけれ
    <逢うことがまったく絶えてしまった今になって、はじめて、ほんとうにあの人が恋しいということがわかったよ。>
    ☆ とても悲しい歌。在原業平の「月やあらぬ」と同じ状況に置かれた、同じ心のありようの表現ですが、業平の歌が虚構に託した美意識に溶かし込んだ悲しみであるのと、まったく対象的に、思いそのものの流露の歌。詩歌はこんなにも違う表現で、心を伝えることができると、気づかされます。どちらの歌も美しく、悲しく、心に響きます。

    819 よみ人知らず
    葦辺(あしべ)より雲居(くもゐ)をさして行く雁のいや遠ざかる我が身悲しも
    <葦の生えている水辺から大空を目ざして飛んでいく雁のように、しだいに遠ざかっていくあの人を見まもっている私の身が悲しく思われることだ。>
    ☆ 重ねられたイメージ、情景が、とても鮮明に心にひろがります。情景に投げ込まれての、「いや遠ざかる」という詩句にあわれ、哀しみがにじんでいて、心に沁みます。最後にぽつりと、もれでてしまう言葉、「我が身悲しも」、身MI、もMOと、やわらかな音色で弱弱しく口を閉じられた後、沈黙に、悲しみが沁み込んでゆき、私の心も染まるのを感じます。心に響く美しい歌です。

    出典:『古今和歌集』(小野谷照彦訳注、2010年、ちくま学芸文庫)


      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:00

    2014年09月09日

    思ひそめてむ人は忘れじ『古今和歌集』の恋歌(四)

     『古今和歌集』の巻第十一から巻第十五には、恋歌が一から五にわけて編まれています。五回に分けてそのなかから、私が好きな歌を選び、いいなと感じるままに詩想を記しています。

     平安時代の歌論書についてのエッセイをいま並行して書いていますが、優れた歌論書、歌人に必ず感じるのは、彼自身が好きな良いと感じた多くの歌をいとおしむように、伝えようとする熱情です。
     なぜなら、好きな歌を伝えることは、彼自身の心の感動を響かせることでもあるからです。詩歌を愛する者にとって、それ以上の歓びはないように私は思います。

     今回は四回目です。一首ごとに、出典からの和歌と<カッコ>内の現代語訳の引用に続けて、☆印の後に私の詩想を記していきます。
     よみ人知らず、の歌が多くなったのは、好きな歌を選んだ結果で、意識的にではありません。心に響く歌を作者の著名度にとらわれずに選びました。


      恋歌四

    682 よみ人知らず
    石間(いしま)ゆく水の白波立ち返りかくこそは見め飽かずもあるかな
    <岩間を流れて行く水に白波が繰り返し立つように、私も繰り返し立ち戻ってはこのようにあなたに逢いたい。それでも飽きたりない思いだ。>
    ☆ この歌のいのちは、心情の率直な表白です。「飽かずもあるかな」は、実感そのものです。単純でありながら、心ふかく、私は共感します。愛する想いは、古今の時代も、千数百年後の今も、少しも変わらないと。
    清流の波立ちの白さと音が歌全体に、さわやかな空気を吹きかけてくれています。

    687 よみ人知らず
    飛鳥川(あすかがは)淵(ふち)は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ
    <飛鳥川の淵が瀬になるように目まぐるしく移り変る世の中であっても、私は一度愛した人のことは決して忘れはしない。>
    ☆ 上の句は「どのようにめまぐるしく変わる世の中であっても」を比喩で、定型的な表現ですが、この歌のいのちは、「思ひそめてむ人は忘れじ」、この言葉、想い、恋心の一途さにあります。自分に言い聞かせるような強さが、心に響きます。

    694 よみ人知らず
    宮城野(みやぎの)のもとあらの小萩(こはぎ)露を重(おも)み風を待つごと君をこそ待て
    <宮城野の下葉もまばらになった萩が露が重くて吹き払ってくれる風を待つように、私もあなたのおいでをひたすら待っていることだ。>
    ☆ けなげな、純真な、心に響くうたです。前半部の、露にぬれ頭を垂れるか弱げなうすももの萩の花、に自らを重ねながら、重苦しくつらい、涙ゆれる心をはらってくれる、「風を待つように、あなたを待っています」、優しい純真な想いの詩句は、風の透明感そのままに、心に吹き込み、心を洗ってくれます。

    695 よみ人知らず
    あな恋し今も見てしが山賎(やまがつ)の垣ほに咲ける大和撫子(やまとなでしこ)
    <ああ恋しい。今すぐにでも逢いたいものだ。山住みの人の垣根に咲いている大和撫子のような、あの人に。>
    ☆ あふれるままの恋の想いを冒頭に歌いあげた直情の歌です。「あな恋し今も見てしが」、「ああ恋しい。今すぐにでも逢いたい」、恋に生きるひと誰もが抱いている想いを吐露した後、想いをなげかける愛するひとは、ナデシコの花のイメージに重なり生まれ変わって、山間の緑につつまれ、可憐にゆれ、心に美しく咲きます。
    人を愛する想いの、優しさを感じるうたです。

    723 よみ人知らず
    紅の初花染(はつはなぞ)めの色深く思ひし心我忘れめや
    <初咲きの紅花で染めた色が深いように、深くあなたを思い染めた頃の愛情を私がどうして忘れようか。>
    ☆ 紅の色に想いと一首そのものが染め上げられたような歌です。紅一色、単彩であることで逆に、強い色彩感を感じます。和歌、詩歌は言葉による芸術でありながら、意味とイメージを通じて、色彩ゆたかな、心象風景の絵画でもあることを、教えられます。

    743 酒井人真(さかゐのひとざね)
    大空(おほぞら)は恋しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ
    <大空は恋しい人の思い出の品でもないのに、どうして物思いにふけるたびにひとりでに眺められるのだろう。>
    ☆ 冒頭の詩句「大空は」で、心に空を、とても大きなひろがりを感じます。恋しさをつのらせ、なぜか空を見あげている心、どうしてだろう? この想いに自然な共感を覚えます。「形見かは」という問いかけの詩句で歌はいったん切れ、そこにため息のような想い余韻、休止、間(ま)が生まれています。そのあとのひとり言のようにもれでる言葉、「物思ふごとに眺め MONOOMOugOtONiNahaMe」は、物思いに似つかわしい音色を、子音N、M音と母音オO音の連なりで、穏やかに、もの静かに奏でています。結びの音色「らるらむ RARURAN(mu)」も、心に哀感を呼び起こされる響きです。

      恋歌五

    747 (略) 在原業平朝臣
    月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして
    <この月は去年と同じではないのか。梅の花が咲くこの春の景色は去年と同じではないのか。あの人がいない今、この私の身だけはもとのままの身で、すべてが変ってしまったように思われる。>
    ☆ 逢えなくなってしまった人への想いが、月のひかりに美しく響き聞こえてきます。「あらぬ ARAN」、「ならぬnARAN」の類音の繰り返しが、心の波の高まりになっています。その高まりの幸せの時は既に去り、下の句は、そこから静まり沈んでゆくばかりだと、哀しみが、静かに心に響きます。

    出典:『古今和歌集』(小野谷照彦訳注、2010年、ちくま学芸文庫)


      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:28

    2014年09月07日

    新しい詩「ほうろう」、「うつ」、「言葉、しずく」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」の「野の花・ちいさなうた」に新しい詩の花が咲きました。
                                  (クリックでお読み頂けます)

    ・野の花・ちいさなうた

    詩 「ほうろう

    詩 「うつ

    詩 「言葉、しずく


    道ばたの小さな野のうたの花ですが、お読み頂けましたら、とても嬉しく思います。
      


  • Posted by 高畑耕治 at 17:20

    2014年09月06日

    詩人・井上優、詩3篇をHPで紹介しました。

     私のホームページの「好きな詩・伝えたい花」に、詩人・井上優(いのうえ・ゆう)さんの詩3篇を紹介させて頂きました。

      詩 「明日が始まるとき」、「蜜」、「子どもの黄色いクツ」
                                                  (クリックしてお読み頂けます)。

     井上優さんは生まれながら詩人にしかなりえない人間がもつものを抱えていると私は感じます。感情ゆたかな心です。  彼の詩は、感情の波のままに大きくうねり、揺れ動きます。彼が紡ぎだすこころ優しい絵本の言葉は、とても心に響きます。
     抒情は詩のいのちだと私は思います。彼は抒情詩人です。詩に、若さ、熱情、ロマン、願い、憧憬がみずみずしく息づいています。
      理智、知性の賢しらな功利的精神、枯れ老いた散文精神に社会が覆われていても、人間の、心、感情は息していることを、彼の魂は、あきらめずに熱く伝えずにいられません。人間への愛、思いやり、願いこそ大切なものだと。そして絶望と背中合わせの祈りを。

     お読み頂けましたら、嬉しいです。



      


  • Posted by 高畑耕治 at 16:00

    2014年09月04日

    夢かうつつか『古今和歌集』の恋歌(三)

      『古今和歌集』の巻第十一から巻第十五には、恋歌が一から五にわけて編まれています。五回に分けてそのなかから、私が好きな歌を選び、いいなと感じるままに詩想を記しています。

     平安時代の歌論書についてのエッセイをいま並行して書いていますが、優れた歌論書、歌人に必ず感じるのは、彼自身が好きな良いと感じた多くの歌をいとおしむように、伝えようとする熱情です。
     なぜなら、好きな歌を伝えることは、彼自身の心の感動を響かせることでもあるからです。詩歌を愛する者にとって、それ以上の歓びはないように私は思います。

     今回は三回目です。一首ごとに、出典からの和歌と<カッコ>内の現代語訳の引用に続けて、☆印の後に私の詩想を記していきます。
     よみ人知らず、の歌が多くなったのは、好きな歌を選んだ結果で、意識的にではありません。心に響く歌を作者の著名度にとらわれずに選びました。

      恋歌三 (続き)

    625 壬生忠岑
    有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂(う)きものはなし
    <有明の月がそっけなく空にかかって見えた、一晩中かきくどいても逢うことができないで帰って来た、あの別れの時以来、暁ほどつらく感じられるものはない。>
    ☆ どうしてこの歌に惹かれるんだろうと、読み返しながら感じるのは、まず、心情への共感です。つらいだろうと。もうひとつは、音調、調べの美しさで、有明(ARIAKE)、別れ(WAKARE)、暁(AKATUKI)が、母音アA音に前面に浮かび上がりながら、子音R音、K音が隠されて響きあって感じられます。作者が意識していたかどうかに関わらず、暁の音akaTUKIには「つき」「月」が隠れていて、「有明の」の詩句で浮かび上がった夜空の月のイメージを意識下でゆらめかせているように感じます。

    635 小野小町
    秋の夜も名のみなりけり逢ふといへばことぞともなく明けぬるものを
    <長いと言われる秋の夜も、実は言葉の上ばかりのことだった。思う人にいざ逢うということになれば、あっという間に明けてしまうものだから。
    ☆ 前出の歌の逢えなかったつらさとは対照的に、逢える喜びの時の過ぎゆく速さを歌っていて共感しますが、仮想で少し理が勝っている分、切実さは弱いと感じます。
    「ことぞともなく」という言葉の音には歌の調べの流暢な流れのなかで、ゴツゴツした違和感を私は感じますが、逆に言えば小町はこの詩句をこそ強調したかった気がします。

    637 よみ人知らず
    しののめのほがらほがらと明けゆけばおのがきぬぎぬなるぞ悲しき<東の空が白くなり、ほのぼのと夜が明けていくと、それぞれ自分の着物を身につけて別れていくのが悲しい。>
    ☆ 前出の小町の歌に比べると、悲しみに切実さがあって、心に沁みて感じられます。調べも美しく、前半は、母音オO音を重ねながら、「ほがらほがら」という詩句が心に新鮮に響きます。後半の詩句「おのがoNoGa」、「きぬぎぬ KINuGINu」、「悲しきKaNaSIKI」は、子音K音、S音、G音と、母音イI音が、鋭く引きつる音で、意味とイメージをささえ響いています。N音も鋭さの谷間の静かさのように隠れ響いて感じられます。

    644 人に逢ひて、朝(あした)によみて遣(つか)はしける    
      業平朝臣
    寝(ね)ぬる(よ)の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな
    <共寝をした夜の夢のような出逢いがはかなく思われて、うとうとしていると、ますますはかなくなっていくことだ。>
    ☆ 音調的な歌です。子音Y音、M音、N音の、やわたかな、ぬるりとした、まとわりつく響きが連なっています。「NeNuruYoNo YuMeohakaaNaMi MadoroMeba iYahakaNaNiMo NariMasarukaNa」。
    もうひとつこの歌を言葉の音楽にしているのは、「はかなみ haKANAmi」、「はかなに haKANAni」、「かなKANA」、の同音の繰り返し、響きあいの快さです。歌人は詩句をこころのうちに探すとき無意識に音の記憶に導かれてこだまするので、業平が最後の詠嘆の詩句「かな」をえらんだのは、こだまの美しさに惹かれたのだと私は感じます。

    645 業平朝臣の伊勢国(いせのくに)にまかりたる時、斎宮なりける人に、いとみそかに逢ひて、またの朝に、人やるすべなくて、思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたりける
       よみ人知らず
    君や来(こ)し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか
    <あなたがおいでになったのか、私が出かけていったのかよくわかりません。あの出逢いはいったい夢だったのでしょうか。寝ていたのでしょうか、起きていたのでしょうか。>
    646 返し 業平朝臣
    かきくらす心の闇(やみ)に惑ひにき夢うつつとは世人(よひと)さだめよ
    <私もまっくらな心の闇にまどってしまってよくわかりません。夢か、現実かということは、世間の人よ、定めてください。>
    ☆ これら二首は、業平を主人公に、とてもドラマティックな、恋愛絵巻のようです。歌二首にも、濃密な逢瀬の記憶が塗り込められていて、日常の生活時間とは隔てられた、特別な時間、至高の愛の時間を、夢と現の境界、今と記憶をさ迷いながらも、おぼろに浮き立たせています。
     業平の歌の詩句「世人さだめよ」は、とても突飛な、日常生活では浮かばない、すこしキザな発想であるのも、逆に、二人の時間、ドラマに、日常、世人から隔絶された至純を与えていると、私は感じます。

    652 よみ人知らず
    恋しくは下(した)に思へ紫の根摺(ねず)りの衣(ころも)色出(い)づなゆめ
    <恋しく思うのならば、心中ひそかに想っていなさい。紫草の根を摺(す)り染めした衣のように、人目につくようなことはけっしてするな。>
    ☆ 前出の業平の歌が、二人の秘め事を物語の場に託して、読者にあからさまにしつつ、共感を呼び覚ますのとは対照的に、恋人の、恋人どうしの、互いの胸のうちの秘めた想いが、紫色に染められて美しく響きます。末尾の詩句「ゆめ」は文法的には禁止の強い意味をもちますが、「YUME」という響きはとてもやわらかく、そのギャップに私は惹かれ、好きな言葉です。

    出典:『古今和歌集』(小野谷照彦訳注、2010年、ちくま学芸文庫)





      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:28

    2014年09月02日

    小野小町、こころ揺れ 『古今和歌集』の恋歌(二)

     『古今和歌集』の巻第十一から巻第十五には、恋歌が一から五にわけて編まれています。五回に分けてそのなかから、私が好きな歌を選び、いいなと感じるままに詩想を記しています。

     平安時代の歌論書についてのエッセイをいま並行して書いていますが、優れた歌論書、歌人に必ず感じるのは、多くの彼自身が好きな良いと感じた歌をいとおしむように、伝えようとする熱情です。
     なぜなら、好きな歌を伝えることは、彼自身の心の感動を響かせることでもあるからです。詩歌を愛する者にとって、それ以上の歓びはないように私は思います。

     今回は二回目です。一首ごとに、出典からの和歌と<カッコ>内の現代語訳の引用に続けて、☆印の後に私の詩想を記していきます。
     よみ人知らず、の歌が多くなったのは、好きな歌を選んだ結果で、意識的にではありません。心に響く歌を作者の著名度にとらわれずに選びました。

      恋歌一 (続き)

    542 よみ人知らず
    春立てば消ゆる氷の残りなく君が心は我に解けなむ
    <春になると解ける氷のように、あなたの心は私にあます所なくうち解けてほしい。>
    ☆ 透明感がとても美しい歌。春に解ける氷のイメージがそのまま恋の想い、願いに沁み込み重なっています。まっすぐな想いの歌の良さを教えてくれるように私は感じます。

    546 よみ人知らず
    いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べはあやしかりけり
    <いつといって恋しくない時はないけれども、秋の夕暮は不思議に人恋しさがつのることだよ。>
    ☆ このうたも真情、あるのままの想いがあふれこぼれおちたような歌です。前半は心のすがたそのままを平常な心で述べていますが、後半部で歌に高まっているのは、そこで「あやしかりけり」という詩句に、想いの強さが凝縮して、心苦しさにまでなっているからです。詩歌は平常心の説明、叙述ではなく、心の高まり、感動だと、この歌にも感じます。

      恋歌二

    552 題知らず 小野小町 
    思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
    <しきりに恋い慕って寝たから、あの人が夢に見えたのだろう。夢とわかっていたならば、目が覚めないでいればよかったのに。>
    ☆ 私が『古今和歌集』の歌人のうち、「よみ人知らず」はのぞく個人でいちばん好きなのは、小野小町です。私の心の好みで、歌の良し悪し、歌人の優劣ではありません。
     小野小町の歌には、想い、情の、強さと深さが感じられて私の心に響きます。この歌の恋ごころの悲しみにも、おそらく自らの経験に根ざすようにおもえる真率な情感があって、美しい抒情をたたえています。

    553 小野小町
    うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき
    <仮寝の夢に恋しいあの人を見てから、はかない夢というものをあらためて頼りに思い始めるようになった。>
    ☆夢を頼みにし始めたという、はかない言葉にながれたどりつく歌全体に、恋に想いを染める女性の「あわれ」をただよわせています。一首全体、歌の姿そのものに、「あわれ」の情感を感じるのは、「頼みそめてき」という詩句に、肉声が聞こえてくるような情感がこもって感じられるからだと思います。

    557 返し 小野小町
    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす我はせきあへずたぎつ瀬なれば
    <心のこもっていないいいかげんな涙が、袖に玉となっているのです。私は涙をせきとめることができません、激しく逆まく早瀬のように流れていますので。>
    ☆ この返しの歌は、小野小町の違った表情をみせてくれます。「我はせきあへずたぎつ瀬なれば」、言葉の意味、イメージそのものとなって、強い意思をみなぎらせています。「おろかなる」涙、涙を「おろかに」あつかう人、投げかけを、許さず、拒み、突き返す、この歌にあらわれた静かな女性の意思に、私は魅力を感じ共感します。

    602 忠岑
    月影に我が身をかふるものならばつれなき人もあはれとや見む
    <月の光に私の身を変えることができたならば、つれないあの人もしみじみと感じ入って眺めてくれるだろうか。>
    ☆ 創作、虚構の歌とわかりながらも、人の心の真実をとらえて、歌は共感を呼び覚ますことができると、感じる歌です。「月影」と「つれなき」それぞれの「つ」、「き」、また、「我が身」と「見む」の「み」の音に隠れた響きあいを感じます。月の光のイメージが歌全体を照らしていて心を澄ませてくれる歌です。

      恋歌三

    619 題知らず よみ人知らず
    寄る辺なみ身をこそ遠くへだてつれ心は君が影となりにき
    <あなたに近づく手づるがないので、身体こそ遠く隔たってはいるが、心はあなたの影となって早くから近くに寄り添っていたことだ。>
    ☆ 恋歌、恋い慕う、恋い焦がれる、うったえかける歌。恋文のような、熱さと、せつなさが、心に響きます。「心は君が影となりにき」、人を愛する想いの響く、とても美しい詩句です。

    621 よみ人知らず
    逢はぬ夜の降る白雪と積もりなば我さへともに消(け)ぬべきものを
    <逢えない夜が降る白雪のように積もり重なったならば、雪と一緒にこの私までが命絶えて消えてしまうに違いないよ。>
    ☆ 夜にふりつもる雪のイメージが美しくひろがり、寒さ、淋しさの情感の世界をかもしだしています。悲しくて、雪と一緒に消えてしまいそう、この想いは、恋の喜びと悲しみを知るひとのこころを、静かに共感でふるわせてくれます。

    出典:『古今和歌集』(小野谷照彦訳注、2010年、ちくま学芸文庫)



      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:00