この約百年間に
女性の詩人が生み出し伝えてくれた詩に心の耳を澄ませ聞きとっています。
『ラ・メール 39号、特集●20世紀女性詩選』(1993年1月、編集発行人:新川和江・吉原幸子、発売:思潮社)に採録されている詩人の一作品・一輪の花たちのなかから、私が好きな、木魂する思いを揺り起こされた詩について、詩想を記しています。
今回みつめる詩人は、
林芙美子(はやし・ふみこ、1903年明治36年~1951年昭和26年)です。
彼女の
小説『放浪記』は、たぶん私が20代の初め、小説家を目指していた頃に読んで、深く共感したのを今も思い出します。小説のなかに散りばめられた詩も、とてもいいと感じました。
この詩が収録されている
詩集『蒼馬を見たり』(1929年昭和4年)はまだ読めずにいるので、彼女の言葉に触れたのは、その時以来です。
女性の詩をみつめるこの一連の詩想でとれあげる詩人たちは、どの方も個性が強いですが、林芙美子のこの詩を読んで、とても独特な魅力、このひと、この詩人でないと書けない世界だなと強く感じます。
これは、詩人にとって、一番のほめ言葉ではないでしょうか? 少なくとも私はそのように読者に感じてもらえる詩人でありたいです。
私がこの詩に感じる一番の魅力は、自分の言いたいことを自分の言葉で伝える、
「語り口調」です。
最終行の「神様コンキクショウ」に特徴的ですが、たぶん彼女でないと詩のなかの言葉として書かれなかったと思える言葉が魅力的な声で散らばっています。
もうひとつは、生活からにじみだすような
人間味です。あんまり苦しすぎて、どん詰まりのときに、自分を笑うしかない時があります。苦しさも悔しさも自嘲も通り越してしまったどん底でみあげた空の青さのような。
そして、社会に対する批評性も表裏一体になってまっすぐに浮かび上がります。やわらかく書くと、
こんな不正だらけの社会に負けるもんか、コンチクショウです。現在にもつながる経済的な格差。この時代には江戸時代からひきずられている社会階層、身分による隔て、差別も露骨でした。そのことを苦しい者、貧しい者の偽りのない言葉で、
跳ね返そうとする意地・意思が輝いています。
彼女の詩が、苦しいことを書いていても、なぜか明るく爽やかなのはなぜか?
私は彼女があらゆる角度から締め付けてくる制約を、ああでもない、こうでもないと、潜り抜けるように、彼女が自分で生き方を選んでいるからだと感じます。追い込まれてもどうするかは、どう生きるかは、自分が選ぶ、自分が決める。
彼女は自分を突き放し、「放浪」記としましたが、私は彼女の
「自由」を探さずにはいられない思いの日記なんだと、共感して読みました。
この作品の詩の言葉も、
文語定型詩の制約、「こうあらねばならない」という締め付けを初めて本当に跳ね飛ばした、口語の自由詩だと感じます。言葉が生き生きと息している、それが本物の輝かしい印。
もう文語定型にはどのようにもしても収めようがない、新しい口語の自由詩を彼女は生き、生みました。
苦しい唄
林芙美子
隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であらう――
生活の中の食ふと言ふ事が満足でなかつたら
描いた愛らしい花はしぼんでしまふ
快活に働きたいものだと思つても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしやがんでゐる。
両手を高くさし上げてもみるが
こんなにも可愛い女を裏切つて行く人間ばかりなのか!
いつまでも人形を抱いて沈黙つてゐる私ではない。
お腹がすいても
職がなくつても
ウヲオ! と叫んではならないんですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。
血をふいて悶死したつて
ビクともする大地ではないんです
後から後から
彼等は健康な砲丸を用意してゐる。
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるが、
私の知らない世間はなんとまあ
ピヤノのやうに軽やかに美しいのでせう。
そこで始めて
神様コンチクシャウと怒鳴りたくなります。
次回も、女性の詩人の作品に心の耳を澄ませてみます。
☆ お知らせ ☆
『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年
3月11日、
イーフェニックスから発売しました。A5判並製192頁、定価2000円(消費税別途)しました。
イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
こだまのこだま 動画
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