2024年01月26日
詩歌の源のこと、授けられるということ
日本詩歌の本当に良いものに女性の和歌からの目映い個性の星星が輝いているのは、社会一般的に差別おとしまれ平等公平ではないなかで反骨の星星だから。
勅撰集にも権力権威者の和歌の砂、瓦礫のなかにも光る魂の星。
反骨のない権威者の砂、瓦礫は今も同じ。
わたしのとても好きな、敬愛する、小野小町も、和泉式部も、紫式部も、式子内親王も、建礼門院右京大夫も、実人生あからまさにいえば、しあわせではない。
でも、だからか、こころ打つ美しい詩歌は、生みだせ、伝えられる。
書きもらしてしまったけれど、とても大切な、大伯皇女(おおくのひめみこ)と、読み人知らずの、歌だけ残し伝え心に今響かせてくださる、無名で逝かれたおおくの歌人たちも。
ほんとうに心に響く詩歌は、頭だけで上手に面白くできたようなものであるはずなく。
心から歌わずにいられず、言葉をけんめいに選び尽くせた、不可思議ないちどかぎりの幸運を降り注がれ、授けられたもの。
2024年01月13日
詩と、芸術表現について
現代詩の堕落、つまらなさ、わけのわからなさの原因は、西洋詩のモノマネに甘んじて、暗喩モドキに溺れたこと。直喩と同じほど詩そのものの暗喩を商売に悪用して軽んじ損ねたこと。美がなく汚いこと。直喩も暗喩も丁寧に心の旋律に織り込められた詩なら、美しくふるえださずにはいないはず。
詩が、蔑まれ、疎んじられ、読まれないのは、悲しい。退廃と、滅亡への、袋小路でしかない。
詩でこそ、あらわせ、伝えられるものを、心ある詩人が、滅びまでは、美を、けんめいに。新しい心に響く詩、見つけるため、創りだすため。
必死にいのちかけて書くなんて、あたりまえのこと、スタートライン。より速く、いのち果てるまで走れ。
文学列島が沈没しかけているのだから、小説、短歌、俳句、詩、現代詩、細かい島々の、近親憎悪で叩きあい、沈没を早めるのは愚かだとも、反省。文学を好きな人は、なんとも感じない大多数人口には比べようもなく、響きあえる心があるのだから。なにより大切にして、高めあい、文学を深め、伝えるべき。家族近親者肉親には情け容赦なく想うまま言い過ぎて傷深めあってしまうように。しすぎてはいけない。戦うしかないヤツラは、違うところにタムロしてる。
自らの作品を本当にいい、大好きだと言いきれる作品にまで高めることにできる限りのすべてをそそぎ込まずにはいられない人の業が芸術の創造者だと思い。芸術を愛さずにいられない人、芸術を愛する人を愛さずにいられない人も、芸術の創造者と思う。だから芸術は高められ深められ、人のいのちとなれる。
この世のドス暗闇に、微かな星を瞬かせているのは、人の、創作表現、伝えようとし、愛したい愛されたい、純な心の微香、微光、ささ波。それが失われたなら、ただ暗闇。
わたしは文学、芸術、表現者、表現努力が、むちゃくちゃ好き。ほかのことに関心執着まったく無さすぎて世間的には変人廃人世捨人と、冷たい目線で自分を見ています。美を求めずにいられない表現者、表現努力が、めちゃくちゃ好き。だから、醜悪に甘んじ、グロテスクをてらい、目配りしたウケネライは、めちゃくちゃ嫌い、厭う。
幼いいのちを、凍えさせず、あたためたいと、願わずにいられない童話がいちばん好き。詩、そのもの、だと思っています。
2024年01月06日
詩について
より広く、文芸を、絵、絵画を、歌、音楽を、芸術、創作表現を、大切にされる方を、愛します。
詩は、日本も世界も国も言語も歌謡も、壁は越えられるものだから、古代から受け継がれ反発されまた試み創りだされ今このときまで、けんめいに表現し伝えようとほんとうにされた心感じられる言葉なら、みんな好き。
いちばん好きなのは古代歌謡、万葉集から伝えられてきた和歌。すなおに感じとればおおく、女性の、歌心ゆたかな言葉選び繊細な、優れた和歌。
今の会話ニュアンスも取り込んで、口語の短歌は軽やかで親しみやすい一方で、軽くだらけてしまいコピーライト、コマーシャルと区別がつかなくなったり、機知だけであれば川柳もどきになりもする。(詩も制約のなさに甘えた数多くのただの口語散文と奇抜さアピール)。面白さの印象はすぐ消えてしまう。
口語の短歌を短歌にし、詩を詩にするのは、言葉の音色、旋律、つながりとこだまと反発と転調と休止、沈黙。その緊密な感覚を、作者がどれほど聞き取れ授けられるか。美しいメロディー、楽章が作曲家にふりそそぐのは、修練と執念と才能と運命の授けものであるように。だからこそ短歌も詩も痛く美しい。
古典の文語から育まれ流れてきた水脈の美しさに、おおく触れ感動し、焦がれ真似て表現を重ね積みあげることで、口語表現の花は、日本語の土壌に深く根づきいた、美しさを香らせてくれると、わたしは思っています。特に口語詩は、外国語翻訳文のモノマネ作品は、ガラクタ。
そのことに無反省であると、悪意はなく努力して造り上げようと、懸命にもがいても、口語の詩行はその虚弱さから、ガラクタもどきに、化けてしまう、と思います。
短歌には現在もまだ文語表現を選ぶ歌人がいてその息遣いに触れる機会がより多いことと、語数の少なさ、音数のゆるやかな決まりごとが、口語のしまりのなさだらけぐあいを、いい意味で詩よりは弱めていると感じます。
詩歌の音楽、韻律、語感というのは。例えば古代日本語から受け継がれてきた「ゆき」。構成音の「ゆ」と「き」は響きの柔らかさとキツさが正反対だけれど。「ゆらゆらゆき」の詩句なら「ゆ」の音が生き、「ゆき、木、木、木」の詩句では「き」が生きる。詩作は語の音に耳を澄まし音が音を呼び起こし語を授けられ選び創る。
けれども詩を詩とするいちばん大切なものは、伝えたい想い、書かずにはいられない情熱の、強さと純粋さ、詩のいのちだといつも思っています。
それ以上に、人を想い、愛し、思いやるこころ。
2024年01月06日
「現代詩」という廃墟、暗喩の滅びについて
世間を知ることもこの世では必要かと、「現代詩」と名打つ年鑑誌、本など、買う気はないので図書館で借りて読んでいます。あれ、こんなにブアツイのに、どこにも、「詩」は見つけられないよ?
この世の現代の刊行物ではとっくの昔の現代に、「詩」はもう死んだのかな?
いい書き手、作品も、もちろんあるけど。「詩」は死にかけのよう。
特に新聞、文芸雑誌、におまけのツテで掲載された、高名詩人の作品は、「詩」と呼ぶには酷く、「詩」が死ぬ。
こんな世捨て人がつまらぬことに口を出すのは、いま数少ない、詩を愛す、書かずにいられず、創り始めた人たちの、息吹く「詩」を、詩への深い想いもない者が、損ねるなと想うから、それだけです。
批判ばかりは能無し感性欠如の暴露でしかないので。きちんと書くと最果タヒは選んで年鑑に載せた一編にも光り惹かれる詩才詩心があり。
詩集では
柏木麻里の「蝶」「密の根のひびくかぎりに」
見た目は別に根本は、現代詩に毒されていなくて、美しい響きの好きな詩集。
書き手によるとしても、現代詩の書き手は、短歌の書き手にくらべると、語感、音感、響きへの感性が(教学として拒否していると主張される詩人まがいは差し引いたうえで)、とても鈍感だと感じた。日本の言葉へのこだわり、学びが、翻訳マネで、欠けすぎているのでは?
一編だけで、わかるか?
詩は恋、出会い、宿命だから、
ひと目でなにかしら響き
わかり、結ばれる
「現代詩年鑑2022代表詩選」現代詩手帖、思潮社も読み、詩心、美、純、音を聞き取れ詩を感じたのは
最果タヒ「恋は無駄死に」
松尾真由美「凍える雛のひとときのざわめきから(抄)」
峯澤典子「ひとりあるき」
三角みづ紀「幼いまま枝をひろげて」
読むのが苦痛な廃墟にも埋もれず光っていました。
「現代詩年鑑2021代表詩選」現代詩手帖、思潮社も読み詩を感じたのは
赤司琴梨「羽化する声」
ぱくきょんみ「黒い羽が落ちている」
文月悠光「遠いくちづけ」
最果タヒ、松尾真由美の独自性優れた詩。全体は詩誌のトキメキは乏しく何十年間もの常連の瓦礫散文駄作はシニア別枠除外しないと苦痛でした。
あからさまな感は、
詩の黄昏過ぎて早や墓場
2021年代表詩選、現代詩手帖、思潮社
那珂太郎「枯野の鼠」抜粋「9、雑誌編集者曰ふ。右の原稿を〈詩〉作品特集に組込むことにためらひを覚えるが、〈現代詩〉には形式内容ともに何の制約もなく、作者が〈詩〉と称すれば、これを斥ける根拠を示すのに苦しむ。その当否は読者の判断に俟つほかない。」
見識のようにみえて、編集者は「代表詩選」に〈詩〉として掲載しているのだから、何の見識もない。これが〈詩〉か? 長年の癒着と、権威に敬意ではなくおべっかしてるだけ。これが年鑑の代表〈詩〉か?この詩人の作品はおおく読み学んだ者なので言います。これは駄作。載せるのは雑誌編集者の恥。
現代詩手帖アカウントがツイッターのフォローを外してくださった見識に対するお礼として、書き留めます。
長年の〈詩人〉の地位と権威の惰性で、優れた〈詩〉を生み出せるなんてほど創作は甘くなく、研鑽と修練と感性を研ぎ澄まし続けても授けられるかどうかわからず、一作品ごとにいのちを授かるのが〈詩〉だろ?
〈詩〉の良さに拘りもなく結局は詩壇村社会の付き合いで掲載していたら雑誌が廃墟になるのは当たり前。年間代表詩選としながら〈詩〉って何んだかわかりません、当否は読者の判断を俟つなんてまるで国会答弁。載せる作者も恥。みずみずしい良い〈詩〉が数多く掲載から零れ落とされているのだろうなあ。
現代詩は暗喩の森、自慰自食のタコツボに溺れ過ぎたので、暗喩は滅びるほうがいい。
読んで「この数式解けない」なんて悩ませてくれる言葉遊びなんて詩じゃない
『三角みづ紀詩集』 現代詩文庫206、思潮社。活発な詩活動をされている方の同シリーズを何冊か読みました。心に響いたのはこの本で、特に全編収録の初期詩集二冊「オウバアキル」「カナシヤル」がとても良いと感じます。痛みと書かずにはいられない想いの強さに言葉の音楽、詩が溢れ。
第三詩集「錯覚しなければ」も想いの強さに暗喩表現も加え優れていると感じます。その後の詩集も根底に想いの強さの自発的な音楽性が確かにありますが、現代詩の掟と盲信されている暗喩の森に踏み迷い、この人ならではの痛みの表現の強さが薄れているよう。
歪んだわたしの資質、感性、表現についての想いにも響いてくる詩を書いてきた人が、「現代詩」のより新しい世代の書き手にもいたんだと知って、嬉しくおもいました。
廃墟の外、墓場の檻しか、感じとれない気づけないのは、ただの鈍感。
現代詩村のまわり、彼方までひろがる、知らない気づかないところで今日も今も想いは生まれ、詩は書きはじめられていると知れ。
2023年06月11日
創作。旋律、色彩
ショパンのピアノ曲はなんど聴き返しても、どうしてこんなにきれいな旋律、生まれたんだろう、と。
求めつづけ、探しつづけ、創りつづけ、見つけられない嘆きのある日に、なぜか気まぐれにふと、ふりそそぎ訪れてくれた、おどろきと喜びと、ときめきと、疲れとかなしみがふるえていて、とてもきれい。
作品の、もっとも大切な、なくてはならない旋律、色彩、かたち、詩句は、無から天才が創り出せるものではなくて、どこからともなく降りそそぎ訪れてくれる、知らずに待ち望まれていた、なくてはならない、それだけその時にしかあらわれでないものを、受けとめ、作品のかたちにして、伝えるのだと思う。
「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」展。アーティゾン美術館。
セザンヌから今も創作中の日本の画家まで、見ごたえのある絵画展でした。具象、抽象、かたち、線、色彩、絵とは?美とは?と想いが豊かになります。
すでにあり権威、常識、流行りだと教えられ、同調を求められ、はめ込まれがちな、形は形、優れたものと学び受けとめたうえで、いったん真っ白まっさらに塗り消した画布、空間に、形と色彩、表現の美を、浮かびあがらせ、驚きときめき、感動を生み出せる創作表現が、ジャンルの境界など超えて好きです。
図録で一枚一枚の絵を見返し思い返すと、絵は一枚それだけしかない絵、原画は画家の筆使いと呼吸と眼差しそのものが塗り込められ宿り今も息していて、複製技術がどんなに向上しても伝えようがなく、圧倒的に良いそれだけしかない姿であるのだと、沁みるように感じます。
2023年06月09日
読書メモ。大乗仏教、神道、伝統色、黙示録。
「一万頌(しょう)般若経」大乗仏教の《空》(くう)は、言葉では伝えようもないことが伝わってくる。
「大乗経典(ニ) 仏教聖典選第四巻」岩本裕、読売新聞社
「金光明経〔七〕弁才天」。女神サラスヴァティーの漢訳名。神奈川江ノ島で今も祀られている女神。讃たんの詩は、とても清らか。古代ギリシャの女性詩人サフォーの「アフローディディー(ビーナス)讃歌」の女神へ捧げるおごそかで美しい詩と響き合うよう。経典のあちこちに当時インドの女性蔑視が雑草のように生い茂る中でも枯れない一輪の、りんとしてきれいな花のよう。
読書メモ「日本神道史 増補新版」岡田荘司、小林宣彦編、吉川弘文館。
古代から現在までの、神道について。
多くの事柄を考えていくための、基礎知識となり、登山口を探し選ぶために、とても良い本。
読書メモ「神道とは何か −神と仏の日本史」伊藤聡、中公新書。
近世まで、神仏習合、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説、人神信仰、渡来神、女神、儒学・国学・キリスト教との関わりまで、特に中世を中心に文献に基づき詳しく考察されていて、考えさせられる。
読書メモ「美しい日本の伝統色」濵田信義編著、中田昭写真、パイ インターナショナル。
植物、鳥、動物、浮世絵にかかわる色の名など、季節や染色の仕方まで、多くの日本画、着物、工芸品の絵や写真、和書古典と文芸作品の豊富な引用と織りなされていて、とてもきれいな良い本。
読書メモ「黙示録と幻想 −終末の心象風景」版画展図録、町田市立国際版画美術館。デューラー、詩人ブレイク、ドレ、ルドンなど。聖書、ヨハネの黙示録(最後の審判など)、ミルトン「失楽園」、ダンテ「神曲」の作品群。生と死と幻視、この世と天国と地獄、光と闇、刻まれた白と黒の世界は鮮烈な、美。
2023年06月04日
ジャイナ教。原始仏教、大乗仏教
読書メモ「ジャイナ教徒とは何か 菜食・托鉢・断食の生命観」上田真啓、ブックレット〈アジアを学ぼう〉49,風響社。
古代から現在までの歴史、信仰の根本にあるもの、受け継がれてある現在の姿と生活。とてもよく理解できる。
読書メモ「沙門(しゃもん)ブッダの成立 原始仏教とジャイナ教の間」山崎守一、大蔵出版。
原始仏典、ジャイナ教典を、書かれた言語を丁寧に読み取り、類似と相違を並べて多く引用していて、学ぶことが多い。ブッダのさとりと初期の布教がどのようであったか、についての著者の考察にも共感する。
読書メモ「仏教入門」岩本裕(ゆたか)、中公新書。
この著者には信仰者には脱ぎ去りがたい押しつけがましさはなく、インドからガンダーラ、中国、日本へと伝えられた人間と文化と歴史に対しての視野の広さと学識の深さと、なにより文学に近い眼差しと共感、距離感があり好き。大乗仏教の章に学べた。
大乗仏教経典にはメチャクチャなところが満ちあふれているけれど(仏教に限らずどんな宗教信仰にも)、説教者信仰者は信じたのだからメチャクチャだとは言わない。
言う者を非難するのが信仰だけれども救いの信仰が根深く(偏狭なナショナリズムとともに)殺し合いの人類史の源であり続けるのは悲惨。
ムチャクチャなものでもすがりつき救いを求められずにいられない人の心(例えば観音信仰)も、自分をみつめると、感じとれてわかり共感すると伝えずにいられないのが人間の文化、文学。穏やかだからこそ、人間らしさ、こころを、犯し壊すものに対しては激しく拒み、受け容れることなんてけしてしない。ほんとうに良い、優れた、文化、文学は。マガイモノが満ち溢れていても。
2023年05月23日
ショパン。太宰治。
<ショパン>
もの静かな情熱ほど、けして絶えないほんとうの強さだと思うわたしは、イリーナ・メジューエワのショパンの響きがいちばん好きです。
ショパン ピアノソナタ第3番はほんとうにきれい。おんぷの星、星、星たち、からだこころいちめん、ふりそそぐ。
穏やかに簡素な旋律、ただ、美しい。
ショパンはバラードの生命力と愛の情熱ががずっと好きだけれど、ソナタ第3番は生きて耐えそれでも創りあげずにいられなかった人の悲しみが透明に痛く結晶していて、こころ凍りふるえ溶かされる。
<太宰治>
疲れていて読めなくて、ユーチューブで音楽、たまたま気まぐれに朗読を聞きました。
太宰治「黄金風景」読んだ短編。
聞いて、感動しました。
人の心、伝える努力、筆力。
誰がなんと言おうとどうこう言おうとわたしは太宰が彼の作品が好き。
2023年05月13日
岡本かの子。短歌と時代
「岡本かの子全集 第9巻 短歌」ちくま文庫。
巻頭歌、好きな歌。
力など望まで弱く美しく生れしままの男にてあれ
初めの2歌集「かろきねたみ」「愛のなやみ」がいいと感じます。
「岡本かの子全集 第9巻 短歌」
巻末歌から二首目、嫌いな歌。
昭和十四年の陽は登るなり聖戦国幸(さきは)へる国大和島根に
著名になり、国の大勢、国家、ジャーナリズムの偽報道、大衆多数世論、雰囲気にのまれてしまい、南京陥落の歌、ヒットラーやムッソリーニを戦争同盟国の頭として歌い残した。
当時の著名文人と同じ。
国家の公式見解をなぞるだけの報道、それををなぞるだけの文芸が、作品の最低限の価値を失い煽動、ガラクタに陥ると教えられる。見たまま聞いたまま感じたままの思いを歌いあげる短歌、詩の、陥りやすい落とし穴。断筆しても、日記に残し個の命を見失わない意思を保ちたい。
わたしは戦勝を誇り祝う人たちには同意、協賛、迎合はどんなことがあってもしません。
主義主張は押しつけがましく無責任にその時時の権力、多数のご都合で変えられ棄てられるもの。
戦敗国には望まず拒めず殺され傷つけられ苦しみ悲しむ人がいる、そのことを見ず聞かず感じ考えない鈍感を厭います。
その時代に投げ込まれた人を後追いで批判するのは容易だけれど、それよりも生きざまをみつめ考え学ぶことが大切だと思います。詩人高村光太郎、歌人岡本かの子、人として心ある優れた人、心うつ詩歌を歌った人が、時代を生き表現し伝えようとし見失うことがなぜ、あるのか。
2023年05月13日
言葉の生命力
受け継がれるもの。移り変わるもの。絶えるもの。
文語は文語となり、口語と離れて、意味さえ読み取り難くなるほど、時と人とともに移ろい姿を変えるのが言葉だから。
そのことを受けとめるときなおさら、はるか万葉の時代から変わらない姿、響きで受け継がれてきた言葉は、海、波、山、野、日、風、雨、雪、花、滴、心、春、秋、朝、夕、月、子、鳥、どれも愛おしく、これからも受け継がれ息しつづけてほしいと願います。
被写体、モデル、世界の瞬間を、ありのまま写生、模写、写し撮りなぞるのもひとつの表現方法だけれど、それは被写体、モデル、世界の瞬間そのものの美の手渡し。被写体、モデル、世界の瞬間への、感動を、表さずにいられない高められた表現衝動と努力に降り注がれ授けられる結晶が芸術だと思います。
フォークソング、ニューミュージックと呼ばれた、いい歌はおおいけれど、あたらしい歌がもとめられ、生まれてきて、共感されるなら、演歌のように、限られた世代の歌でありつづけて細り消えていっても、いいのかもしれない。
2023年05月07日
詩と短歌の文語表現
歌い手が歌詞に曲を添え旋律にのせ舞いあがらせるように。わからないほど、ずっと静かに。
音の鳴らし方の、約束ごとのように。知っている、望まれている、なつかしいものに、触れたときの、よろこびがあると、感じます。そよ風をふいに感じて、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と、瞬間、無言で世界が姿を変えるような。
カナシカリケル、というと、悲しい、かなしい、カナシイとくり返すだけでは下降し沈んでいくばかりの言葉の意味の重さに、小さな羽があたえられて、カリケル、カリケルとその受け継がれてきた響きの浮力で、足裏が地面からすこし離れて、微風の音学の音符に生まれ変われるような、儚い喜びを感じます。
わたしは作品に文語表現をそのままの姿で表すことは選びませんが、使われ続けるその良さと響きあうものを、作品での言葉の表われのどこかしらに微かなものとしても息づかせていたいと願います。
読書メモ「近代短歌の鑑賞77」小高賢編、新書館。柳原白蓮を知り感じとることができました。
柳原白蓮 二首
けふの日もなほ呼吸(いき)するやふとしたるあやまちにより成りしこの躯(からだ)
焼跡に芽ぶく木のありかくのごとく吾子の命のかへらぬものか
山川登美子、三ヶ島葭子(よしこ)、岡本かの子の短歌にも惹かれます。
読書メモ「石川啄木全集一 歌集」「同二 詩集」筑摩書房。雑誌「明星」時代、啄木十代二十代初めの詩集『あこがれ』は、憧憬、ロマン、感傷に満ち、詩才、文才あふれ魅力ゆたか。多くの詩が文語で書かれたことが、今読み返すうえで妨げとなってしまったと思います。彼に限らず島崎藤村の詩も同じように。
今も愛唱され続け、わたしも好きな石川啄木の短歌は、三十一文字だから、使われる文語もかぎられていて、わからない感はなんとなく薄らぎゆるせて、今使われない言葉の響きも、韻律として快く聞き流せる、のだと思います。文語だけの詩は読みとるために求められる努力に、軽やかさが壊されてしまうけれど。外国語の詩を翻訳しながら読むことに似て。
2023年05月04日
詩人の永井ますみさんが詩集「純心花」の作品をご紹介くださいました。
永井ますみ「詩書の立ち読み」
詩「秋万葉」
詩「子さぎと子ぐまと少女に」
詩「ななめに結んで」から「ゆびの花」
詩「しあわせ」
詩「無限ドロップス」
おおくの詩のなかから選んでくださった作品を通して永井さんの詩ごころを感じます。
2023年04月22日
高村光太郎詩集『智恵子抄』千鳥と遊ぶ
心を病んだとても悲しい智恵子と高村光太郎の九十九里浜
高村光太郎詩集『智恵子抄』におさめられた詩、「風にのる智恵子」、「千鳥と遊ぶ智恵子」は、ずっと心に響き続けてある詩です。
わたしにとって詩は、ひとであることのかなしみの海の波、いのちの海の小鳥、空からこぼれ落ちた流れ星の涙の滴、貝殻となった星のかけら、でしかありませんから。
2023年04月21日
感動は感情。パスカルの『パンセ』
小説の展開と描写と叙述の斬新さと精緻さ、短詩型の優れ透徹した目と意思に徹した写生、抒情の旧弊をモダニズムの翻訳で超克したと踏み迷い驕り墜ちた現代詩の知性偏重。それだけではその主張を表し得た作品でも読むと虚しい。作品にあいにゆくのは澄み透って響かずにいられない心の切実さを探すから。
文学表現は類人猿としてのわずかな知性をつつみひろがる、感性、感受性の無限、無限、未知のゆたかなときめき。
文学の真珠は、どんな芸術ともおなじ、ひとの感情。
底の底にみえずとも体温をもちふるえている感情の芯を、伝えてくれる作者をわたしは敬い作品を愛しつづけます。
感動は感情、わたしにとっては。
知性は作品を作品、海を海とするための最低限の防波堤。コンクリートであるより砂浜であれるなら、作品が潮騒そのものになれるような。
パスカルのパンセは二十歳の頃からずっと変わらず好きな、潮騒。
文学の海を、波のあおを、愛し、みつめ、耳澄ませ、磯の香かすかに、はだ海風にくすぐられ、つつ。
アシであるより、生まれたのだからどうせなら、考え、感じふるえる、花で、あれたなら。
(人間は考える葦(アシ)である。パスカル、「パンセ」)
2023年04月14日
日本語。知里幸惠。八木重吉
読書メモ
「日本語の歴史」山口明穂、鈴木英夫、坂梨隆三、月本雅幸、東京大学出版会。時代を奈良、平安、鎌倉・室町、江戸前期と後期、明治以降に区分し、音韻、文字、語法、語彙、文体について、多くの用例を読みながら学べる。
人と言葉は移ろうものと、感じる。
「日本文学全集30日本語のために」池澤夏樹個人編集、河出書房新社。
祝詞、仏教、キリスト教の文学と、現代かな遣い、日本語論考の選び方に特色があり学べる。アイヌ文学、知里幸惠を採りあげたのは素晴らしい。
より深く濃く彼女の最良の真価を多くの読者に伝えてほしかった。
「八木重吉全詩集1、2」ちくま文庫。
彼の詩は好き。石川啄木、種田山頭火に、響きあう心と言葉の美がある。
詩集「秋の瞳」、「貧しき信徒」に選ばれた詩は、言葉少なで、短歌、自由律俳句とも通いあう。
同時に、八木重吉は、知らなかったけれど、詩稿、未刊行詩は、毎日言葉想いあふれるまま言葉逃さすしつように書きつけていて、磨かれたのだと感じた。
書かずにいられなかった言葉は、ひとからひとに響き伝わるのだと想う。
2023年04月05日
中島みゆき。ルーブル美術館展「愛を描く」。芸術とAI
中島みゆき「ホームにて」名曲。曲も詩も。
初期アルバムの彼女の詩に、多くのことを教わりました。
この質を保てなかったのは生活するためにしかたなかったのだろうし、しんどすぎて選んだのだろうけれど。中島みゆき。いい詩があるときから消えた。受ける歌詞は書き続けたけど。
シンガーソングライターは現世で売れると儲けてしまい楽になれる可能性があり満足してしまい、書きたいことさえ、見失えてしまいどうでもよくなれるのかもしれない。
その意味でだけなら、生まれつきの詩書きは宿命として、今生での悪運に、死ぬまで書かずに生きられない使命を授けられ刻み込まれた生きもの。
中島みゆきの歌と生き方に想うことをすなおに記しましたが、高校生のときに初めて聴いた数枚のアルバムは今もずっと好きで、ときおり気分で聴き返したりします。心の表現者として、尊敬しています
ルーブル美術館展「愛を描く」
みることができ。一枚一枚の絵の、一筆一筆に画家の想いの眼差しがあり、描かれてから今日までその絵の前に佇み見つめてきた一人ひとりの鑑賞者の、人生と想いがあり、今日もまた新たに一人ひとりの、想いは育まれ。絵は好き絵を好きなひとは好きと、感じられる時間でした。
ルーブル美術館展「愛を描く」を見にくる人、そのおおくの人には、感動できる心とわかちようもなく、この星で続きつづけ、今ある、殺しあい、戦争、争いの愚かさへの、痛みと嫌悪と否定と、願いが、心の片隅に静かに強くあり。
暴力強制を厭うその想いは、人なのだからとても大切なことだと、わたしは思います。
五嶋みどり。リハーサルや舞台裏やインタビューのある最後まで聴き、観て、とても優れた演奏者なのだと感じ、知りました。演奏そのものの優劣を聞きわける耳を持ちませんが、一人の音学家として人間らしい魅力を奏でられる、音楽演奏を愛する方なのだと、感じました。
芸術は専門知識で専門家やコンピューター、AIが採点決めつけられるほど単純なつまらないお遊びではない、人間らしさの誤りまじる表現だから、耳の判定精度が機械に劣っても、より豊かに感じゆらめきうる、大切なものです。
技術の修練で得られるものがともなわなければ他の人に伝わりませんが、技術だけでは機械です。(むかしの少年マンガにキカイダーというおかしなのがありました。今ならエーアイダー。)人は響かず、人に響きません。AIは賢しらさの極みの道具で、道具が人の表現力を真似ておろそかに扱うことを、私は好みません。
2023年04月04日
高畑勲の「かぐや姫の物語」。絵、マンガ、アニメの日本の伝統の感性
読書「十二世紀のアニメーション -国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの」高畑勲、徳間書店/スタジオジブリ・カンパニー。
平安時代の絵巻物「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵詞」「鳥獣人物戯画」などをアニメ、映画の創作視点から見つめ解きあかす。日本の絵、マンガ、言葉、感性の考察も深い。
高畑勲の「かぐや姫の物語」は、とても美しく感動したけれど。海外評価が驚くほど高くなかったのは、日本画、日本芸術、日本の感性の極みの、余白の美、塗り残す白の美、余韻の美、輪郭と色塗りの技法を極めようとしたことにあると思います。
西欧芸術には饒舌に語り尽くしり尽くし奏で尽くし、表しつくしてこそ優れた価値、そうしないできない限り劣っていて最高のものは伝えられないとの、抜きがたい信仰に近いものがあるとおもいます。
同時に、大人は子どもに優ると考えが根底にあることも影響していると感じます。
日本に育ち生きるひとが自然に感じてしまう、余白の美、子ども心の豊かさ柔らかさへの愛おしみ、を伝統的に感じとれない欧米映画人には、理解できず感じとれなかったのだと思っています。
「かぐや姫の物語」を観てからすぐに「竹取物語」を読み返しました。かぐや姫はいつまでも憧れの恋びとです。
高畑勲の優しい童話心、(「アルプスの少女ハイジ」「母を訪ねて三千里」はわたしは今も好きです。
わたしは立派な成人より、子どものほうがかわいいし感情ゆたかでわがままでよく泣くし困らせるけれど、根は優しく目が澄んでいて、純だと、愛おしく感じてしまいます。
2023年03月30日
人間の、表現。絵と詩。
「ぼくはモダンな芸術など存在しないことを知っている。存在するのはひとつの芸術―不変の芸術だけだ」『エゴン・シーレ まなざしの痛み』カバーそで。水沢勉、東京美術。1911年9月1日付の叔父宛の手紙にある彼の考えた格言、共感する言葉の一つです。(この画集は彼の核を捉え美しくよいと感じます)
私もずっと思ってきたので共感する言葉でした。「現代」の名を冠することで目新しさを押し出そうと露骨なある一時期の諸ジャンル、現代詩、現代音楽、現代演劇に、芸術の不変性が欠けていてつまらないのはこの本質を忘れていて鈍感だからではないでしょうか。だからいつまでも現代と週刊誌みたいに。
AI全盛の現代に。芸術家の言葉の棘を。
「ぼくは、あらゆる肉体から発せられる光を描く」
「エロティックな芸術作品にも神聖さが宿っている」
「芸術は応用されることができない」
「ぼくの絵は神殿のような建物の中に置かれなければならない」
伊藤直子訳編『エゴン・シーレ 永遠の子ども』八坂書房
北海道立近代美術館データベースの深井克美の絵「バラード」の画像は、持っている本の写真と比べると赤みと影が濃いので、いつか、彼が描いた絵そのものを見ることができたらと、願っています。
人間だからこそ感じとれる感じてしまわずをえない、痛みと美は、ほとんどいったいの、影と光だから。
言葉によるさまざまな表現芸術のなか、詩でこそ強く伝えうるのは、その痛みと美、影と光、だと思います。
文月悠光詩集『パラレルワールドのようなもの』思潮社、には、痛み、痛みを感じとろうとせずにいられない想いの強さが響く、きまじめさが表現の根底にあり、商業的な採算を度外視した懸命な表現者魂が失われず息づき伝わってきて、良いと感じました。
詩を書くものには、自己を救うこと以外には、社会的体裁で報われることはないから、その覚悟と自覚と冷めた意思が必須。画家と同じ。ほんとうのなにかに届きうるような優れた表現は、少なくとも表現者が死ぬまでは報われることなど、ありえないとわたしは思っています。
書いた言葉が美しくないので、消したくも思い消そうともしましたが、この世もわたしも美しくはないので。それでも願わずにいられない人を人であることを、伝えようとあがくのが詩のよさだと思うので、消さず少しでもよく表そうとし伝えることに努めようと思いなおしました。
2023年03月29日
石川啄木と八木重吉。花、星のひかり
石川啄木と八木重吉を、全歌集、全詩集で、読みかえしたいと思っています。十代のわたしが手近な文庫でくり返し読んで詩歌を好きになったのは、彼ら二人と、高村光太郎。敬愛する気持ちはいつまでも変わりません。
詩「涙」
つまらないから
あかるい陽(ひ)のなか
にたってなみだを
ながしていた
『貧しき信徒』八木重吉
なみだを ながす
この日本語の言葉の、「なみだ」と「ながす」に響きあう一文字目の「な」の頭韻、音の響き合いは、とおいむかしの言葉の泉で、結ばれていたように感じてしまうほど、いまも自然で美しく感じられます。錯覚かもしれません。ほんとうはどうだったか、もう誰にもわからないけれども。
折口信夫は、日本語について、もっとも学び、もっとも深く感じたひとだと思っています。同時に、彼はときに、すでにわかりようもない過ぎ去った時のことについて、断定、断言してしまうのは、いさぎよさ、潔癖さ、自分の言葉に責任をとる意思だと感じるけれども。
いまにいるわたし、ひとりひとりに、すでにわかりようもない時のことは、素直にわからないと言うべきとわたしは思います。
大江健三郎の小説に「走れ、走り続けよ」(正確ではないかもしれません)があって、なんでこんなつらいことをし続けなあかんねん、と思いつつも。ラグピーをしていた十代のとき、土日を休んだあとの月曜のダッシュはつらいものでした。
毎日の基礎練習を続け積み重ねてこそ、スポーツも芸術も、晴れの、一度限りの、優れた表現をしうるのだと思います。文芸は、誰もにわかる言葉に甘えがちで、基礎練習の積み重ねを怠りがちだと思います。できうる限り毎日読み、毎日書くことが、優れた作品が生まれてくれるためには不可欠と思います。
生きていることも。なんでこんなつらいことをし続けているのか、と、くり返し感じますが。し続けてはじめて感じとれるようになるなにかも、あったから、これからもあるだろうから、まだ、し続けています。
小学性の言葉のようですが、いちばん大切な、生き続けさせてくれて、励ましてくれるものは、なぜだかわからないけれども、好き、だと感じてしまう、気持ちだと思います。
わたしは、花、星のひかり、のように、儚く、きれいな、この世にさえ、あってくれるものをかんじとれることが、好き、ささえてくれるものは、ただそれだけです。
うたも。
The Beatles 「Here, There And Everywhere」
俗な歌詞、俗な心にこそ、人の、詩は、ある。
子どももおとなもへだてず、こえて、心に響いてしまう、詩。
2023年03月25日
詩歌。現代短歌と現代詩。
日本語の個性から生まれでて育くまれた詩歌の表現技術のひとつ、掛詞を大切に思っています。詩「羽おと」の、初句、
「コブシひらき」は、コブシの花が咲くと、手のひらのこぶしが開いた、を重ね合わせています。
最終二句
「空の/あなたまで」は、空のずっとむこう、古語の「あなた」と、
亡くなり天国、浄土、涅槃、救われる遠いところに今こそはいてくださいと願わずにはいられないひと「あなた」を、重ね奏で伝えたいと願い書きあらわしました。
わたしは詩歌といえる、詩も歌も感じとれる表現こそ豊かで心に響く優れた表現だと思います。
そのうえで、現代詩より現代短歌に惹かれてしまうのは、現代詩が賢い頭で言葉の組合せの綾を弄び淫し自嘲しつつそれでも賢くて凄いだろと、高等遊民であると思い込んだ高みから普通の人を馬鹿だと見下げる傲慢さに閉じこもりカチコチに枯れてしまっていて、感情、想い、感性、感受性にこそ、詩心が宿る、美しい、ほんとうの、善くあれるかもしれない、希望、願い、心の響き、音楽、心の絵、色彩やどる詩歌、ポエムであることを、高学歴お勉強知識こそ優れているという世俗の常識エリート高学歴崇拝社会に侵され、忘れていて気づけず衰えているからです。
現代短歌には現代詩が見失った、伝えずにはいられない想い、美しくありたい、ほんとうのなにかを見つけたい、できるなら善く生きたいという、人の根っこの心の、まじめさ、願いを、言葉でなんとかあらわして人に伝えたいと恋う、切実さが響き伝わってきて共感してしまい、きれいだなと惹かれます。
人類史で心に響き続ける詩を書き残さずにいられなかった人物に、生きていた社会でそこそこのエリート先生と認められ満悦安住できていた者などいなかったし、そんなところにまともな詩は生まれようがないとわたしは思います。
閉塞村の中で、ノーベル賞であろうが数限りない賞を作って与えあって満悦していたところで。泡。
キツイことを言いながら、それではおまえ自身はどうなんだよと、今もほんとうの詩を生みたい伝えたいと願わずにはいられない、わたし自身に問いかけているから、キツく言わざるをえないのだと。