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高畑耕治
高畑耕治

2014年02月28日

赤羽淑「式子内親王における詩的空間」(二) はるかな空間を、ここに。

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。

 今回は前回に続き、論文「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた私の詩想を記します。

◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1

   ながめ侘びぬ秋より外の宿もがな野にも山にも月やすむらん(C百首 二四八・新古今秋上 三八〇)
  <ながめわびぬ あきよりほかの やどもがな のにもやまにも つきやすむらん>

 この歌の作者は月を眺めている。と同時に月に眺められ、隈なく照らし出されている。どこへ行っても遁れようのない寂寥感がそこにはある。(略)自然を眺めながら、逆に自然から眺められ、自然の中に投げ出されている自分の姿を感じているのである。晩年の作である正治百首において、内親王はこのような二重の視覚を獲得するようになる。
 宿を立ち出でてどこへ行っても寂寥から遁れられないのなら、いっそのことここにじっとして動かずにいようと思う。そして眺めの視線だけをどこまでも往かせようとする。見ること、感ずることに徹しようとするのである。(略)(出典引用1終わり)

☆ 自然を眺め、自然から眺められ
 月を眺め、月に眺められる、歌の作者の寂寥感についてのこの叙述に、私は赤羽淑の寂寥感が重なって感じられます。文章をとおして、人間としての共感、自分の心との重なりを感じとる心を感じます。感情移入して心に感動を覚えることは、文学の鑑賞、研究においてさえ、花咲く言葉をささえ、しっかり根付く土壌ではないかと私は思います。

「どこへ行っても寂寥から遁れられないのなら、いっそのことここにじっとして動かずにいようと思う。」「見ること、感ずることに徹しようとする」、この生き方は、文学に生きようとする人間に共通する、私も深く共感を覚える真実のように感じます。文学作品を書くという行為は、世界各地をくまなく巡り写真を撮り紀行文を書くという行動とは対極にあって、動かず、机の前での孤独な行為です。体を動かすことを、諦めたうえでの。そこに生きようとする者は、心の遥かな旅で地球の隅々、宇宙の果て、過去と未来、永遠まで、感じ尽くそうとします。

◎出典からの引用2
 眺める存在であると同時に眺められる存在であるという自己意識は、内親王が幼女時代から少女時代にかけて十一年ほど加茂の斎院として過された体験と無関係ではあるまい。神館の女主人として幼いときから中心的存在であったかの女は神聖な館の奥深くかくまわれているという意識と、人びとの注目をつねにあびているという意識と、背反する二重の意識をすでに幼いころからもたざるを得なかったのではなかろうか。(出典引用2終わり)

☆ 加茂の斎院として
 幼女、少女時代、思春期を、生まれた身分から斎院として過ごし、結婚しなかった式子内親王が、「眺める存在であると同時に眺められる存在であるという自己意識」をもたざるを得なかった、のはその通りではないかと私は思います。彼女の歌の、悲痛な静けさも、この相克の痛みからもれでた声のようにも、悲しく感じます。だからこそ、歌わずにはいられない魂の人であったのだとも。

◎出典からの引用3

 このような意識の特殊性が晩年にはつぎのような達成をみる。

   山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(C百首 二〇三・新古今春上 三)
  <やまふかみ はるともしらぬ まつのとに たえだえかかる ゆきのたまみず>

   今桜咲きぬと見えて薄曇り春に霞める世の景色かな(C百首 二一〇・新古今春上 八三)
  <いまさくら さきぬとみえて うすぐもり はるにかすめる よのけしきかな>

   花は散てその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる(C百首 二一九・新古今春下 一四九)
  <はなはちりて そのいろとなく ながむれば むなしきそらに はるさめぞふる>

 これらの歌における感性の特性は、まずそれらが求心的な方向をもっているということであろう。作歌主体の聴覚や視覚のうちに周囲の動きを取り込む。それからその感覚を今度はできるかぎり遠くまで解放する。
 これらの歌によってわれわれが描くヒロインは、「松の戸」「苔の扉」などのイメージがふさわしい巷を遠く離れた閑静な場所に自分を住まわせている。そこにじっと坐って移り変わる外の景色を眺め、自然の気配を感じている。神経を研ぎ澄ませ、意識を集中して、世の出来事や、自然の現象を一心に捉えようとしている。そして自分は動くことなく、かすかな周囲の動きを捉えている。

 このように内親王はつねに、眺める存在と眺められる存在の二重性の中に自己を感じ、閉ざすものと閉ざされるもの、意志的なものと受け身的なものの交差するところに詠ずる主体を位置させている。そして閉ざされた狭い世界の内側で、外の景色を眺め、心の奥を凝視し、恋することを夢想するという単純なモチーフを繰返すうちに、限りなくはるかな空間まで自己の感性の中に取り込むことができるようになる。逆な言い方をすれば、限りなくはるかな空間を、身を置く場所<ここ>において捉えることができためずらしい歌人だったのである。
(出典引用3終わり)

☆ はるかな空間を感性の中に
 赤羽淑の、式子内親王の理解が、人間性全体を体感するような、真実のものであったことが伝わってきます。
 想い描かれたヒロイン、式子内親王の姿と息遣いまでもが、目の前に見え感じられるようです。
 「じっと坐って移り変わる外の景色を眺め、自然の気配を感じている。神経を研ぎ澄ませ、意識を集中して、世の出来事や、自然の現象を一心に捉えようとしている。そして自分は動くことなく、かすかな周囲の動きを捉えている。」
  このように式子内親王は、いのち、世界に向き合い、歌ったのだと思います。

 「そして閉ざされた狭い世界の内側で、外の景色を眺め、心の奥を凝視し、恋することを夢想するという単純なモチーフを繰返すうちに、限りなくはるかな空間まで自己の感性の中に取り込むことができるようになる。」
  これは、歌人の、詩人の、理想とする生き様、詩人としての私の理想です。彼女の晩年と同じ年齢にあるいま、私もまた、「限りなくはるかな空間を、身を置く場所<ここ>において捉えることができ」る詩人でありたいと、願い、創作しています。

出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた詩想です。



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 『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日イーフェニックスから発売しました。
(A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
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 イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
    こだまのこだま 動画

  


  • Posted by 高畑耕治 at 19:30

    2014年02月27日

    新しい詩「花まつり」、「花まつり、恋うた」を公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「花まつり」と「花まつり、恋うた」を、公開しました。変奏です。

    詩「花まつり」

    詩「花まつり、恋うた」

    (クリックでお読み頂けます)。

    ちいさな、二りんのうたの花です。
    お読みくだされば、とても嬉しく思います。



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  • Posted by 高畑耕治 at 20:15

    2014年02月26日

    赤羽淑「式子内親王における詩的空間」(一)  閉ざされて、開かれて。

     赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の著書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)は詩歌の本質をとらえていると感じる私の愛読書です。
     赤羽名誉教授は定家と同時代の私が敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の和歌についても歌人の魂に迫る論文を執筆されていらっしゃり、「式子内親王の歌風(一)―歌の評価をめぐって―」についての私の詩想は次のエッセイに既に記しました。

      赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(一)。心ふかく。

      赤羽淑の論文から。式子内親王、歌の評価(二)。魂の声が。

     今回からは、式子内親王の詩魂をさらに深く感じとるため、赤羽淑名誉教授の二つの視点からの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を読みとり、呼び覚まされた私の詩想を記していきたいと思います。

     まず数回にわたり、論文「式子内親王における詩的空間」を感じとります。
     最初に、このエッセイを執筆しながら感じていたことを記しますと、赤羽名誉教授が式子内親王の歌を慈しみ感じとる心を文章に感じながら、敬愛する歌人の歌を読み返す時間は、文学のゆたかさにつつまれ、幸せと喜びを感じました。

    ◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
    (和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

    ◎出典からの引用1
      一

       秋こそあれ人は尋ねぬ松の戸を幾重もとぢよ蔦の紅葉 (新勅撰秋下 三四五)
      <あきこそあれ ひとはたずねぬ まつのとを いくえもとじよ つたのもみじば>

     (略)「秋こそあれ」というのは、(略)「秋こそ尋ね来たれ」という意であろう。
     (略)式子内親王の歌には際立った特性が認められるのである。それは、「幾重もとぢよ蔦の紅葉」と強い命令形で言いきる調子に表わされている。たしかに内親王の世界は幾重にも閉ざされた彼方にある。内親王自身がわれとわが身をそのような場所に置いている。われわれは内親王の世界を、まずこのように閉ざされ、隔絶した空間として受け取る。(略)(出典引用1終わり)

    ☆ 強い命令形、閉ざされ、隔絶した空間
     赤羽淑は論文の冒頭に引用する歌を通して、まず式子内親王の「際立った特性」を、「強い命令形で言いきる調子に表わされている。」と示します。この歌でも「秋こそあれ」「幾重もとぢよ」という語調の切迫さがささめき響いています。(この論文の後半でこの個性は歌人の本質に根ざすものとして再びとりあげられます。)
     式子内親王の、愛唱されている歌、私の好きな歌のおおくに、この個性が響いていて、私はこの歌人を、いのちと魂を、静かに絶唱する人、だから好きなのだと思います。
     歌は、孤独、閉ざされ、隔絶した空間を凝視し、その空間で息することから生まれてきます。このことは生まれながらの歌人であることの証だと私は思います。孤独の底なしの深さが、式子内親王の歌の魅力があふれ出してくる源です。

    ◎出典からの引用2
     ところで式子内親王はそのような存在としての自己を意識し、そのような存在として彼女を見つめている他者の目をも意識していたのではなかったろうか。文治五年以前ころに作られたA百首にすでにそう思わせるものがある。

       跡絶えて幾重も霞め深く我世を宇治山の奥の麓に(A百首 六)
      <あとたえて いくえもかすめ ふかくわが よをうじやまの おくのふもとに>

       たたきつる水鶏の音も深にけり月のみ閉づる苔のとぼそに (同 二一)
      <たたきつる くいなのおとも ふけにけり つきのみとずる こけのとぼそに>

     ある時は蔦の紅葉が閉ざし、ある時は霞が閉ざし、時には月光さえも閉ざすこの世界は、一旦歌の空間にはいり込んでみると、そこには閉鎖性とは矛盾するような何かに向かって限りなく開かれている世界を見ることができはしないだろうか。
     蔦が幾重にも閉ざした松の戸は、秋に向かっては開かれているのである。「松の戸」で代表される孤独な住いは、秋だけには門戸が開かれている。「跡絶えて」の歌においても人里離れて住む山奥は、霞だけにはそこを満たすことを許している。「月のみ閉づる苔のとぼそに」という場合も、この苔の扉は月光に対しては入ることを許しており、そこは月光が取り囲み、充満する世界となる。

     式子内親王の歌の世界は、はるか彼方に幾重にも閉ざされてあるようなあり方と、その内部で、他者に対してまぎれようもなくあらわな存在をむき出してしているようなあり方と、矛盾するものが同時にみられる。この両義性、または二重性はどこから来るのだろうか。(出典引用2終わり)

    ☆ 閉ざされた世界、開かれている世界
     赤羽淑は、歌をとおしてさらに式子内親王の心に迫り、感じとります。「ある時は蔦の紅葉が閉ざし、ある時は霞が閉ざし、時には月光さえも閉ざすこの世界は、一旦歌の空間にはいり込んでみると、そこには閉鎖性とは矛盾するような何かに向かって限りなく開かれている」。
     人間は孤独な自己意識が深まれば深まるほど、自己ではない、自己を取り巻くものを、限りなく強く希求せずにいられません。その意味で、赤羽淑は、式子内親王をとおして、人間そのものを、人間である自分を、凝視していると、私は感じます。
     閉ざされた世界と、むき出しにあらわな開かれた世界、歌人の心にひろがる矛盾、二重性を、歌に掬い挙げる感性に満ちた文章は、とても美しく、次のようにとらえられて歌は、その心象風景を眼前から遥かまで、さらにひろげてくれるように感じます。

     「松の戸」で代表される孤独な住いは、秋だけには門戸が開かれている。
     人里離れて住む山奥は、霞だけにはそこを満たすことを許している。
     苔の扉は月光に対しては入ることを許しており、そこは月光が取り囲み、充満する世界となる。

     拒絶と受容、相反するこころを、矛盾のまま、二重性のままに、歌い込めることができた美しい女性、式子内親王を慕う気持ちが、歌を読み返すたびに、深まってゆきます。

    出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。

     次回も、赤羽淑「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた詩想です。



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  • Posted by 高畑耕治 at 19:30

    2014年02月24日

    詩想(四) 一市民として(2)

     私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。
     
     今回は「一市民として(2)」、最終回です。生活しなければ文学は創れないから、生活する者としての想いです。



    一市民として選挙の日に思う。なぜ、投票するか? 選挙権を放棄せず自分の意思を示したと言いきるための証。自分自身が命をかけてしたいことに打ち込むために、調整を委ねざるを得ない事柄の代理職の選定。かといって、委ねてはいられない問題へは意思表示。誰がなろうが譲らない、意思、声をもつと。



    一市民として。いろんな、考え、想いがあっていいと思うけれど。考えや願う未来が間違ってもいなくても、自分が生きてるうちより得しそうな代理職人をえらぶ人おおいなと実感するのが選挙。投票するのは、代理職人にゆずらない意思確認のためにだけ。棄権、放棄はどうなろうが委任。それよりはまし。



    クズと罵りあって、気にしない、鈍感、傲慢、社会をめざすんだね。クズの罵倒軍団が夢か、 それが美しい国なんて。あさましい。
    (注一、この島国の政治屋のことです)。



    なんだかこの島国の、りいだあは、人間の品位をはぎ落とすことにばかり熱狂するようで、人間の顔がメルトダウンして、本能のままの猛獣動物園が、夢か。あさましすぎる。
    (注一に同じです)。



    クズなどと同じ社会にいるひとに言うことを、小学校のせんせいも、幼稚園、保育園の先生も、間違ったことだと教えてくれた。国会の先生はそれすら、わからず、気にしないとしか言えないなんて。年少さん前まで退化したのか? 先生と子どもたちに、とても恥ずかしい。
    (注一に同じです)。



    この星があちこちで、記録的な、過去最大の、気候変調を通して、悲鳴を伝えている今。子どもたちを、子どもたちのこの星を、想える人間なら、原発と武器の輸出なんて進められるか? 正気か? 真剣に考えられもしないなら、よけいなことだけはせず、未来を汚さず、退け。



    人間にとっての、有史以来、建国以来?、宇宙とこの星の、主人公、目的?とまで、うぬぼれてきた、ヒトという動物は、この星の、最下等動物、最悪の害虫の汚名をまぬがれるための努力をこそ、懸命にやらないと。星とすべての生き物たちから、汚し壊すばかりと厭われても、もうなんにも言えない。



    真、善、美、を求めずにいられないのが、人間だと、いいたい。
    誤り、悪、醜さ、に陥ることは、あるけれど、抜け出したいという、願いだけは、最後までなくせないなら、人間だと、思いたい。
    陥るまま開き直る、政治屋のような動物たむろする檻に誰が住みたいか?



    オウム真理教もひとつの信仰、信仰者には真理、信仰しない者には狂信。
    現人神もひとつの信仰、信仰者には真理、信仰しない者には狂信。
    信仰しない者を、真理の名で、脅迫し、攻撃し、殺害しようとしないかぎりは。
    クズと脅すことを許してしまう集団は、そのはじめの一歩にいるのでは?



    サリンを作り、殺される人間の痛みも知ろうとせず、使わせた者と言い訳を、軽蔑し厭わしく思う。
    原爆を作り、殺される人間の痛みも知ろうとせず、使わせた者と言い訳を、軽蔑し厭わしく思う。
    武器を作り、殺される人間の痛みも知ろうとせず、輸出し使わせる者と言い訳を、軽蔑し厭わしく思う。




     裸の王様もいずれ自らの愚かな姿と、呆れられている視線に、やがて刺されて恥じ入るでしょう。驕るものはもろいものです。
     
     今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

       詩「おばあちゃんの微笑み
                        (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。



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  • Posted by 高畑耕治 at 19:30

    2014年02月23日

    新しい詩に7篇のうたの子どもをHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩のななつのこ、7篇のうたの子どもを、公開しました。

    詩「ゆきにふりそそぐ」

    詩「ゆうひ」

    詩「ななつのこ」

    詩「うめのはな」

    詩「ゆきのこ」

    詩「かなしくて」

    詩「くもり夜空」

    (クリックでお読み頂けます)。

    ちいさな、七りんのうたの花です。
    お読みくだされば、とても嬉しく思います。


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  • Posted by 高畑耕治 at 21:56

    2014年02月23日

    詩想(三) 一市民として(1)

     私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。

     四回に分けて公開します。
     
     今回は「一市民として(1)」です。生活しなければ文学は創れないから、生活する者としての想いです。



    武器を手にするとき人間は、最下等動物に変わる。
    裸で愛しあうとき人間は、素晴らしい生き物たちのなかま。心を裸に愛しあうとき、人間の歌声が聞こえる。



    武器を売って渡して威張るなんて、撃たれる人を思えないなんて、原発いま売り歩くなんて、苦しんでる人思えないなんて、最下等動物。
    (注一、この島国の政治屋のことです)。



    南洋で戦死させられた私の祖父はわたしに「おまえも、おまえの息子たちも、お国のために、戦い、死ね」とは、決して言わない。戦死者の無念、痛み、悲しみを、平然と悪用しねつ造し代弁するかのように装う政治屋を、わたしは心底厭います。本気ならまず、おまえが前線で殺しあえ。できないなら黙れ。
    (注一に同じです)。



    自分が決して前線で殺しあう意思も決意もないのに、戦死した、殺された人たち、(私の祖父)の耐え難い悲惨な死にざまを、美化して、金儲けに利用し、戦争を煽り、若者の未来を、お国のために、戦死に近づけようとはしゃぐ輩を、私は心底、厭わしく感じます。
    NHK経営委員と、選んだ人たちなど。





    ひとりひとりの耐え難い死を、英霊などと、軽々しく一括りにできる神経を、私は疑い軽蔑します。為政者の無能と誤りを隠し飾ろうとし、真似て繰り返そうと英雄気取りでしてるだけ。戦死させられた人を、汚すな。
    (注一に同じです)。




    恋愛でも、友情でも、相手の人が、これだけは絶対にしてほしくない、と伝えられたことを、やる時点で、関係を断ったとまともな人間なら感じる。のに、そのあとになって、いつでも話し合うよ、と言えるのは、異常、異様な感覚。それこそ政治屋とほめたたえる集団の感覚も。驕り、開き直り、醜く危い。
    (注一に同じです)。



    戦いは、相手はこれだけはやってほしくないことをするもの。だから、それをあえてした人、ゆるす集団はもう、はじめたんだ。宣戦布告したいと。わたしは、戦いは兵器以外なにも生まず壊し傷つけるだけ、愛しあえる時間を奪うから何より憎みます。戦いに巻き込むことばかりに血まなこな者も、集団も。
    (注一に同じです)。



    正しいと思い込んで譲らない人からの、説教を、人間は嫌いなんだ。わたしも人間。どんなに立派な言葉でも、押しつけは誰もが、嫌。
    迷っていても、選んだのは私、好きだったからこっちにした、その気持ちが、人間らしいと思います。



    感動することを、馬鹿にする風潮は、いまの社会全体の浅ましさだと思います。おもねたら、生きていると時間を損ねてしまいます。感動をうしなったら、獣でもなく、機械、物。でも感動は人の真実だから負けない、とも。
    (注二、この島国のマスコミのことです)。



    二本足で立ち歩きわめいても、歌わない、絵を描 かない、感動を言葉で伝えあえない、動物は、猿であっても、人間じゃないんだ、きっと、今も昔もこれからも。



     今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

        詩「死と愛。たきぎと、ぼたもち。(美しい国。星の王女さま)」から。
         「 美しい国。憎悪咲き乱れる、

                        (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。

     次回は、ルソーの長編小説『新エロイーズ』についてのエッセイです。




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        こだまのこだま 動画  












      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:30

    2014年02月22日

    新しい詩「すみれ」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「すみれ」を、公開しました。

       詩「すみれ」   (クリックでお読み頂けます)。


    ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。



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    (A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
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    絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
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  • Posted by 高畑耕治 at 19:45

    2014年02月22日

    新しい詩「ちいさな虫のうた」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「ちいさな虫のうた」を、公開しました。

       詩「ちいさな虫のうた」   (クリックでお読み頂けます)。


    ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。




     ☆ お知らせ ☆

     『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日イーフェニックスから発売しました。
    (A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
    ☆ 全国の書店でご注文頂けます(書店のネット注文でも扱われています)。
    ☆ Amazonでのネット注文がこちらからできます。
        詩集 こころうた こころ絵ほん

     イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
    絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
        こだまのこだま 動画

      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:30

    2014年02月21日

    詩想(二) 詩と文学

     私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。

     四回に分けて公開します。
     
     今回は「詩と文学」です。私の率直な想いです。



    疲れてる、花と話すこころ、星にときめくこころ、なくしてる、沈み静むばかり、詩なんてどこにも。でも好きだということだけ忘れずに、待とう、疲れの底からから浮かび、きっと、話せる、ときめける、好きだから、ただそれだけで、花に、星に、愛するひとに。こころは海、言葉は波、沈み、浮かび。



    好きと感じてしまう言葉 こころうたれてしまう言葉 美しいと感じてしまう言葉 大切なのはそれだけ。
    単純で素朴でありままの 人の想いの 強さ、美しさ、願い、愛を



    詩を、形容すると。気まぐれ、わがまま、自分勝手、訳にたたない、お金にならない、暗い、マイナス言葉を塗りたくれば、できそう、だけど。人間だから伝えあえる、こころ、感動、恋、愛、思いやり、人間であるのをかけがえなく感じる瞬間が、詩だよ。感じられないならこの星を最悪に汚すただ有害な獣。



    作品は、そのたびごとに、いちどきりの、花だから。こころに生まれた、感動の種から、芽吹く姿も、花びらのいろも表情も、生まれソ育つかも、なんにもわからない。けど、想い、願うことから、愛の花きっと。



    文学が素朴だからできること、文学でこそできる、とても素朴なこと。心をうつ。



    孤独からしか詩は生まれない。孤独なひとりと孤独なひとりの、向き合いにだけ、愛はある。



    ほんものの文学は、感情。愛することと、同じ。海の波を、ひとはコントロールなんてできない。できるのは、波のまにまにいることを感じること、言葉を波のしぶきにしようと願うことだけ。



    誰にも知られない、知らせない、愛するひととの、ふたりだけの時間、伝えあう表情のためにだけ、生きている。と、心うつ文学は、みんな伝えてくれる気がして。



    情熱で、込めることができるすべての情熱で、とにかく、書こう。才能はなくてもあっても、引きずられ冬眠から目覚めてくれるだろうから。愛さずにいられないのと同じほどに強く、情熱で。



    菜の花畑、チューリップ畑、ひまわり畑や高原のお花畑の、いちめんの美しさにいつも憧れ、そんは詩を咲かせたいけど、道ばた一輪の小さな花が好き。



    文学、詩は、おそろしいほど、曖昧なつかみどころも正解もない、ばうばうとしたもの。読者として、いちばん心に響き、好きになってしまうのはふたつ。心が純であること。心こめられていること。賢いひとが、馬鹿にしようが、その大切なものがないなら、文学でも詩でもないと、私は感じます。



    所属する組織、集団の看板をひとつひとつ取り去って最後の仮面を外して表れる、その人だけの個性の表情をこそ、大切に想うのが、文学。
    詩。
    それは愛と限りなく近くて。
    宇宙にひとり、はだかで産み落とされた、あかんぼのこころ、童心にやどる、愛に近くて。
    生まれたままの姿、求めあわずにはいられない、ひとりとひとりの、想いに近くて。

    はあもにい、こだま、響きあいの、最果て、極限は、無音とすれすれ。醜さの果て、美しさの果て、生きること、愛することの最果ても、死と隣り合わせ。その端境の青空へ浮かんでゆかずにいられなかった、こころの、しゃぼんだまの虹色には、詩が美しく映り、やどり、ふるえ。ぽしゃんと、壊れるまで。


     今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

        詩「うたの花
                   (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。

     
     次回は、詩想(三)「一市民として」です。


     ☆ お知らせ ☆

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        こだまのこだま 動画  

      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:30

    2014年02月19日

    新しい詩「いっしょに」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「いっしょに」を、公開しました。

       詩「いっしょに」   (クリックでお読み頂けます)。


    ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。



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  • Posted by 高畑耕治 at 21:10

    2014年02月18日

    詩想(一) 心の足跡

     私の折々の想いをツイッターにしたためた言葉から、似通う色合いのものをまとめました。舞い落ち積もり重なった落ち葉を、楓と公孫樹と桜、それぞれの葉っぱをまとめて、焚き火にあたるような感じです。

     四回に分けて公開します。
     
     今回は「心の足跡」です。私の心模様の色合いの変わりざま、四季の空のような。



    こころの、純、結晶したのは、たぶん中二頃。露のひかり手のひらに、壊さずたもちつづけようと、生きているような。



    気負い過ぎたラブレターは想う人も自分も擦り傷、切り傷、増やすばかりで。一度も幸せに、笑って帰ってきてはくれません、心のへこみ、消せなくなって。だから、くりかえし、いつまでも、ラブレターの言葉さがす、悲しい人とはなりました。詩を書く人ってそんな人、私もなんだかそんな人



    感動して、美しいと、好きだと、感じ伝え伝えられる、わずかな時間を想い生きてる。



    どうしても大切なものを、大切にして、感じ、大切なひとに伝えよう。懸命に、素直に。それ以外の余力、時間たぶん、私にはもうない、だから、と感じつつ。



    科学の真理をうたう教科書にも理路整然とした哲学体系にも深淵で難解な執念に宗教の教えにも、のらずこぼれる、幼い子どもの涙、愛するひとの顔のゆがみが、私はずっと大切。そのことにだけは素直に、そのことを守ることだけには懸命に、それだけ。



    わたしはむかし、異常悲哀反応、という、言葉に、異常悲哀反応しました。いまも変わらず。



    投げやりですが。素直に自分を見ると、心にしか関心がありません。後の処世の手続きは、必要と思えても関心がありません。愛しあうために必要だから耐えるだけ。



    生真面目さばかりが、汚点であるがゆえの目印、それさえとりえだと、思いたいばかりの、ひとでした。



    そのときからわたくしはいつもこれで遺稿かと、こころ込め、書いております。



    願い。愛するひとに、最期に、さようなら、じゃなく、ありがとう。口でもう言えなくても、ぜんぶで。



    墓銘碑。書きたい、生みたい、愛しあいたい。願うばかりの、ひとではありました。



     今回の最後に、想いが燃えて結晶した私の作品を。

        詩「かなしみまみれの、なんでやねん
                                    (作品名をクリックすると、お読み頂けます)。

     
     次回は、詩想(二)「詩と文学」です。





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        こだまのこだま 動画  

      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:30

    2014年02月16日

    新しい詩「さざんか」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「さざんか」を、公開しました。

       詩「さざんか」   (クリックでお読み頂けます)。


     この詩は、詩誌「たぶの木」に参加されている詩人・山下佳恵さんの詩「山茶花の花びら散らして」
    こだまして生まれた作品です。

    ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。



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  • Posted by 高畑耕治 at 20:10

    2014年02月15日

    ルソー。あなたを愛しますと言う権利を。

     ジャン・ジャック・ルソーの長編小説『新エロイーズ』を読み通すことができました。この小説の名は二十代の頃からいつも私の心の片隅にあり、いつかは読みたいと思っていました。彼の『エミール』を読み返しエッセイを書きながら、彼への心の共感が深まったことに力を得て、長い小説の世界を旅することができました。

     共感する言葉は小説のいたるところに散りばめられていました。エッセイに書くことは考えずに小説の世界に没入しましたが、読み返すたびに泣きたい気持ちになるほど強い感動をおぼえるクライマックスの言葉だけは、今回ここに書き留めておきたくなりました。

     この長編小説は、複数の人物、男女のあいだで交わされる手紙だけでできた、手紙の束です。私がこのエッセイに記すのは、小説の第六部の十二番目の手紙、この小説の愛しあう二人の主人公、女性のジュリが男性サン=ブルーへ、彼女が死ぬ間際に書いた、最期の、別れの言葉、遺書です。

     この手紙を理解するために、長編小説を遠望します。
    舞台は18世紀スイス。二十代の貴族の娘ジュリと従姉妹ふたりの家庭教師となった平民のサン=ブルーは、ジュリと深く愛し合います。ジュリの母親は娘の心への理解をしめしますが、ジュリの父親は、身分の違いから二人の恋愛、結婚の願いを許しません。ジュリは命がけの手段を選びます。サン=ブルーと一夜を共にし結ばれ、身ごもることを祈り、できなら、殺されるか、結婚をゆるされるか、どちらになろうが、教会で牧師と父の目の前で告白しようと決意していました、が、妊娠の願いかないませんでした。ジュリの母は病気でなくなり、ひとり身の父を捨てられず、ジュリは、自分を犠牲にして、父が独断で娘との婚姻を約束した、愛していない男と結婚します。絶望したサン=ブルーは自殺を踏みとどまり世界周航の軍役に身を投じます。数年後生き残り故国へ戻ったサン=ブルーは、二人の息子の母親となっていたジュリと夫と再会を果たし、紆余曲折のすえ、子どもたちの家庭教師として迎えられ、まもなく共に暮らし始めようとしていました。が、サン=ブルーが恩人の危機を救うため他国へ旅していたとき、湖に落ちた息子を救おうと後を追って飛び込んだことが原因で死の床につきます。ジュリが死を目の前にした床で、サン=ブルーへ宛てた遺書が引用の手紙です。

     この長編小説の主題は、愛と徳です。ルソーは、愛しあう二人の互いへの手紙を通して、愛している、愛している、といい続けます。心深く愛しあうことに変えられるものは何もないと。女と男は、ひとつにならずにはいられないように、結び合うように、自然に産み落とされているのだから、自然のままに、心から、愛しあうことの素晴らしさ、美しさ、愛しあうことへの想いの強さが、一貫して流れています。

     そうであるにもかかわらず、平民と身族、社会的な慣習、数十年まえの日本もそうであったように、娘の結婚相手は、一人の女性としての心が選び決めるのではなく、父親が、家柄、社会慣習で独断し、命ずるものであったこと。この小説でも、心の想いのままに深く愛しあい、慣習の檻を突き破ろうとして結ばれた二人の行いは、願いが適わず、彼女が愛していない父親の選んだ男と結婚したときから、過失、許されない行い、罪、に変じてしまいます。ジュリも、サン=ブルーも、ひとつにならずには生きていけない心であることを深く感じていただけに、引き裂かれた瞬間、ふたりの心は死にました。痛い、真実だと私は、感じます。

     ジュリは結婚した後は、罪をふたたび犯さずに、社会生活の、家庭の、宗教の、徳を守り続けようとします。再会できたサン=ブルーとも、深く愛しあった愛人同士としてではなく、ひとりの家庭の妻と、友人としてともに生きていこうとしていたそのとき、ジュリを死が襲います。
     ジュリの最期の、この手紙での告白は、強く心を打ちます。引き裂かれたとき、愛する心は死んだこと。それでも、生きている限り、愛していたこと。きっと、愛が、徳の押さえつけを、破らずにはいなかっただろうこと、を愛するひとに告白します。心が痛くなります。

     ルソーは、長編小説を通して、愛と徳に語らせているけれど、ジュリの最期のこの言葉こそ、彼が伝えようとした真実なのだと私は感じます。小説を旅するうちに、ジュリが小説の世界を通して生きていると感じ、ジュリを愛している自分を感じるから、彼女の死をまえにした手紙を読み返すたびに私は、悲しく、美しさに心をうたれ、痛み、泣きたくなります。人間であることへの想い、愛することへの想いが揺れ続けます。

     「あなたなしにわたくしにどんな幸福が味わえましょうか? 」

     「徳は地上でこそわたくしたちを隔てましたけれど、永遠の住み家ではわたくしたちを結び合せてくれましょう。わたくしはこの楽しい期待をもって死んでゆきます。罪にならないでいつまでもあなたを愛する権利を、そしてもう一度、あなたを愛しますと言う権利を、この命と引換えに贖えるのを深く喜びつつ。」


    ● 以下は出典からの引用です。(手紙の中でも、私の心にささるように感じて読み返したい言葉を赤文字にしました。読みやすくするため改行は一行空けました)。

     第六部 書簡十二      ジュリより <サン=ブルーへ>

     わたくしたちの計画は諦めなければならなくなりました。すべてが変ってしまいました。いとしい方。不平を言わずにこの変化を忍びましょう。これはわたくしたちより一そう賢い御手(みて)から来たことです。わたくしたちはご一緒に集ることを考えておりましたけれど、ご一緒になることは善くなかったのです。それを妨げ給うたことは天の御恵(みめぐ)みです。きっと不幸が起ることを防ぎ給うたに相違ございません。

     わたくしは長いあいだ思い違いをしてまいりました。この思い違いはわたくしにとって有益なものでしたけれど、もうわたくしに不必要になりましたとき壊れたのです。あなたはわたくしが熱が冷めたとお思いになりましたし、わたくしもそう思っておりました。この思い誤りを役に立つ限り続かしめ給うた方に感謝いたしましょう。わたくしがこれほど深淵の縁に来ていることを知りましたなら、目まいを起こさなかったかどうか誰が知りましょう。そうです、わたくしに生きる力を与えてくれたあの最初の感情はどんなに抑えつけようと思っても駄目で、その感情はわたしの心の中に凝り固ってしまったのです。その感情はもう恐れるに及ばなくなったときに心の中に目覚めてまいりました。その感情は体力がわたくしを見棄てましたときにわたくしを支えてくれ、死に瀕しておりますときにわたくしを元気づけてくれております。あなた、わたくしはこう告白いたしましても恥ずかしい気持はいたしません。否応なく残ってまいりましたこの感情は意志の埒外にあったのでして、少しもわたくしの潔白の患いにはなりませんでした。わたくしの意志に属することはすべてわたくしの義務の領分でした。わたくしの意志に属さない心はあなたのご領分であったとしましても、それはわたくしにとって責苦ではございましたけれど罪ではございませんでした。わたくしはなすべきことをいたしました。徳は汚れなくわたくしに残っておりますし、愛は良心の呵責なく残っておりました。

     わたくしは過去の事は誇ってもよいと思います。けれども、これから先きの事を誰が保証できましたでしょう? あるいはもう一日でも生き延びれば罪を犯すところだったでしょう! あなたと共に余生を送りましたならどういうことになりましたでしょう? なんという危険をわたくしは無意識のうちに冒しておりましたことでしょう! それよりも一そう大きな何という危険に身を曝そうとしていたことでしょう! わたくしはあなたのために心配してあげているつもりでしたが、きっと自分のために心配していたに相違ございません。あらゆる試煉行われましたけれど、試煉は何度でも起りすぎるくらい起る可能性があったのです。わたくしは幸福のためにも、淑徳のためにももう十分に生きたのではありますまいか? まだ人生から取り出さねばならない何か有益なものがわたくしに残っておりましたでしょうか? 天はわたくしから生を取上げ給うても、もう何一つ惜しいものを取上げ給うわけではありませんし、却ってわたくしの名誉を守って下さるのです。あなた、わたくしはあなたにもわたくしにも満足して、都合の好い時にこの世を去るのです。わたくしは喜んで去ります、この退去には少しも辛いところはございません。あれほど犠牲を払いました後ですもの、これからまだ払わなければならない犠牲などは物の数とも思いません。ただもう一度死ぬだけのことですもの。

     あなたがお苦しみになることは今から分ります、わたくしはそのお苦しみを感じます。あなたは相変らずお気の毒な方です、それは分り過ぎるほど分っております。ですから、あなたのご悲嘆を意識しますことは、わたくしがあの世へ持ってまいります最も大きな苦しみなのです。
    けれどもまた、どんなに多くのお慰めをあなたにお遺ししてまいりますか、それをご覧になって下さいませ! あなたが大切に思って下すった女に対する義務としてどんなに多くのご配慮をお果たしにならねばならないかということが、その女のためにお命をお保ちになる義務をあなたに課することでしょう! その女の最も善い部分のために尽して下さることがあなたには残っているのです。あなたがジュリについてお失いになるところは、すでに久しい前からお失いになっていたものだけなのです。(略)

    ・・・・・・疲れを感じます。もうこの手紙を終らなければなりません。(略)

     さよなら、さよなら、愛しい方・・・・・・。ああ、わたくしは人生の門出をしたときと同じようにしてこの生を終ります。こういうことを申しますのは余計なことかもしりませんが、今はもう心が何事をも隠し立てしなくなった時ですので・・・・・・ほんとに、どうしてわたくしの感じていることを残らず言い表すのを憚ることがございましょう? あなたに語っているのはもうわたくしではありません、わたくしはもう死の掌中にあるのです。あなたがこの手紙をご覧になるときは、あなたの愛する者の顔と、もうあなたの宿られなくなった心臓は蛆に喰われておりましょう。でも、わたくしの霊魂はあなたなしに存在いたしましょうか、あなたなしにわたくしにどんな幸福が味わえましょうか? いいえ、わたくしはあなたとお別れするのではありません。あなたをお待ちしに行くのです。徳は地上でこそわたくしたちを隔てましたけれど、永遠の住み家ではわたくしたちを結び合せてくれましょう。わたくしはこの楽しい期待をもって死んでゆきます。罪にならないでいつまでもあなたを愛する権利を、そしてもう一度、あなたを愛しますと言う権利を、この命と引換えに贖えるのを深く喜びつつ。


     今回の最後に、このジュリの手紙と木魂する私の詩を響かせます。
       
       詩「生まれた日から (クリックしてお読み頂けます)。

    出典:新エロイーズ (ルソー著、安士正夫訳、1961年、岩波文庫)


     ☆ お知らせ ☆

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     イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
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        こだまのこだま 動画  

      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:30

    2014年02月13日

    『墨子』(六)非攻。あさましいことだ。

     中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えてきました。

     今回は最終回、さらに「非攻」の言葉を感じとります。

     墨子の弟子たちが、墨子の行動や言葉をまとめた「耕柱篇」と「魯問篇」から、四つの章を選び出しました。それぞれに私が感じ考えさせられた想いを添えます。

    <一つ目の説話>
     ここで子夏の門人たちの言葉は、まるでこの島国の好戦的な為政者、政治屋の熱弁のように感じます。
    「犬や豚でもやはり闘争はある。感情のそなわったりっぱな人間がどうして戦わないことがありましょう」
     返した墨子の言葉は、私の想い、そのものです。あさましい。人間をやめたのか。たとえにつかわれて犬や豚がかわいそうだ。かれらは無駄な、むやみな殺傷はしない。あさましい、この星の最下等生物だと知れ。

    <二つ目の説話>
     墨子は、「大国が小国を攻めるのは」、子どもの遊びと変わらないと見抜きます。攻めるものも、攻められるものも、耕作もできず、機織りもできず、有益な生産はなにもできず、疲れきるだけ。この話もたとえられた「子どもの遊び」が可愛そう、遊びはとても有益で子どもを育みますが、戦争は殺し、破壊するだけです。そのような選択をしてしまえるような為政者は無能であり、社会と人間の破壊者でしかありません。

    <三つ目の説話>
     侵略についての、至言です。そんな愚かなことを行なえる国家の為政者は「全く盗癖があるのです。」
    有害です。
     これは、墨子が戦国時代の大国の君子に、戦争、小国への侵攻を思いとどませるために行なった対話のひとつです。私は政治的な事柄を好む人間ではありませんが、彼の行為を尊敬します。

    <四つ目の説話>
     最後の説話も、他国に戦争を仕掛けようとする大国の王との問答です。
     墨子はずばりと問いかけます・
    「他国を兼併し軍隊を覆滅し人民を殺害した場合には、誰がその不祥の報いを受けるでしょうか」
    この王は賢明でした。「自分がその不祥を受ける、と。」答えうるだけの謙虚さを知性の片隅に残していて、その愚かさに気づけたからです。

     大切なのは、好戦的な、党利党略で他のことを考えられない愚かな為政者を、選ばないこと。
     たとえ、多くの人が守る意志もない公約や言動に惑わされて選んでしまう過失をおかしても、ここでの墨子のように、その非を正すのが、言論する意志だと私は思います。

     秘密保護法で戦前の言論統制への回帰をごりおしする集団、為政者、ともに住み、生きている、多様な、様々な、感じ方、声に、耳を傾ける能力も考えさえない集団、為政者は、市民として生活を選んでゆく個々の自由、とても基本的な人権すら守るのではなく、「国家のための、公けのための民」という偽りの大義の名で制限していくことばかり考えています。 
     選ばないこと、正すこと、あたりまえの市民生活の日常をこそ大切に良くしていこうとする意志を伝えあいたいと願います。
     
     二千数百年前の墨子の言葉は、単純、率直で、人間を、人間が社会で生きる真実を捉えているからこそ、今も、これからも、愛しあってこそ、人間はゆたかに生きていけるということを、教えてくれます。 

    ● 以下は、出典からの原文引用です。

    ■耕柱篇から。
    子夏(しか:孔子の門人)の門人たちが墨子先生に質問して、「教養を積んだ人々にも腕力の争いはありますか」といった。墨子先生は「教養を積んだ人々には腕力の争いということはない」とこたえられた。すると、子夏の門人たちは、「犬や豚でもやはり闘争はある。感情のそなわったりっぱな人間がどうして戦わないことがありましょう」といった。墨子先生はいわれた。「なんとあさましいことだ。君たちは口では湯王や文王といった聖人のことをいいながら、実践については犬や豚を譬(たと)えに持ち出すのか。なんとあさましいことだ」

    出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)

    ■耕柱篇から。
    <解釈> 子墨子が魯陽(ろよう)の文君(ぶんくん)に言われた。大国が小国を攻めるのは、たとえば子供が馬となる《子供の馬遊び。子供が互いに馬になって遊ぶこと》ようなものだ。子供が馬となるのは、自分の足を疲らす。今、大国が小国を攻めるのは、攻められるものは、農夫は耕作ができず、夫人は機織りができず、守ることに専念する。人を攻めるものもまた、農夫は耕作ができず、夫人は機織りができず、攻めることに専念する。
    だから大国が小国を攻めるのは、たとえば子供が馬となるようなものだ、と。

    出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院)

    ■耕柱篇から。
    <解釈> 子墨子が魯陽(ろよう)の文君(ぶんくん)に言われた。いまここに一人があり、羊・牛・犬・豚などの美食を、その料理人が上衣を脱いで調理し、食べきれないほどある。ところが、人が餅を作るのをみると、驚きの目でそれを盗み、自分に与えよ、と言ったとします。いったいこの人は、美食が不足しているのでしょうか。それとも盗癖があるのでしょうか、と。魯陽の文君は言った、盗癖があるのです、と。子墨子が言われた、楚国はその領内の土地は、荒蕪(こうぶ)した地が開墾しきれないほど広く、空地が数千も多くて入居しきれないほどです。ところが、宋国や鄭国(ていこく)の空邑(かんゆう)を見ると、驚きの目でそれを盗みます。これとあれとで相違がありますか、と。魯陽の文君が言った、同様です、全く盗癖があるのです、と。

    出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院)

    ■魯問篇から。
    <解釈> 子墨子が斉(せい)の大王(たいおう)にまみえて言われた。今ここに刀があるとして、これを人の頭にためして一刀で切り落としたとします。この刀を鋭利と言えますか、と。大王が言われた、鋭利である、と。子墨子が言われた、刀は鋭利です、しかし不祥の報いを受けるのは誰でしょうか、と。大王が言われた、刀は鋭利の名を受けるが、刀を執った者が不祥の報いを受けるだろう、と。子墨子が言われた、他国を兼併し軍隊を覆滅し人民を殺害した場合には、誰がその不祥の報いを受けるでしょうか、と。大王は俯仰(ふぎょう)し思案して言われた、自分がその不祥を受ける、と。

    出典:新書漢文大系33 墨子(山田琢、平成19年、明治書院)

     最後に、今回の主題と響きあう私の詩をこだまさせます。

       詩「死と愛。たきぎと、ぼたもち。(美しい国。星の王女さま)」から。
             星の王女さま。『続・絵のない絵本』」


       (作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)

     戦争がもたらす悪があり、原発がもたらす悪があります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。

     次回からは、私のきままな詩想を三回にわけ咲かせます。

     ☆ お知らせ ☆

     『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日イーフェニックスから発売しました。
    (A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
    ☆ 全国の書店でご注文頂けます(書店のネット注文でも扱われています)。
    ☆ Amazonでのネット注文がこちらからできます。
        詩集 こころうた こころ絵ほん

     イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
    絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
        こだまのこだま 動画  

      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:30

    2014年02月11日

    『墨子』(五)他国を攻撃するという大きな不正義。

     中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えています。

     今回の主題は、非攻です。
     
     墨子は、誰もが悪いことだと見なし、「政治を行なう人」が罰する悪事を書き連ねていきます。
     まず、 「一人の男がいて、他人の果樹園に忍びこんでそこの桃や李(すもも)の実を盗」むこと。
     次には、「他人の犬や鶏や大阪・小豚を盗む」こと。
     さらには、「他人の厩舎(きゅうしゃ)に忍びこんで、人の馬や牛を盗みだす」こと。
     凶悪さが増し、「罪もない人を殺してその着物をはぎ取り戈(ほこ)や刀剣を奪い取る」こと。
     これらの悪事について、人間のほとんどの社会で常識とされてきた判断基準を述べます。
     「他人に損害を与えることがいっそう大きければ、その薄情ぶりもいっそうひどいわけで、したがって罪もいよいよ重くなる」

     そのうえで書き記した言葉は、政治屋、為政者、追従する知識人、マスコミの欺瞞と不正を晒し出さずにはいません。
    「以上のような事件は、世界じゅうの知識人はだれでもそれを知ったなら非難し、それをよくないことだという。ところが、いま他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず、かえって追従(ついしょう)してそれを誉めたたえて正義であるといっている。」

     この認識に私は深く共感するとともに、「過ちをくりかえさず」「二度と戦争などしない」ための、とても大切な境界線だと考えます。
     単純で素朴であっても、人間らしい心の声を押し殺してはいけません。

     「戦争は悪だ」。ごまかされず、この声を見失ってはいけないと思います。どんなに精緻な論証による大義を押しつけられても、人間が人間を殺すことを容認してしまうような組織、国家、為政者の大義は、おぞましい罪です。「戦争は悪だ」とだけ、言い続けることに徹することだと私は考えます。

     さらに墨子は、人間のまっとうな心の声にだけ忠実に続けます。人間の社会で、共同生活の根底をささえるために、認められてきたこと。殺人は悪であり、社会に罰せられるということ、そのひどさがまずほど、罰もより厳しく科せられることを、次のように。
    「一人の人間を殺害すると、それを不正義として、きっと一つの死刑の罪」。
    「十人を殺害すると十の不正義をかさねたことになって、きっと十の死刑の罪」。
    「百人を殺害すると百の不正義をかさねたことになって、きっと百の死刑の罪が適用されるわけである。」

     人間として社会生活を営むために、誰もが必要だと受け容れる、殺害と罪を述べた上で、政治屋、為政者、追従する知識人、マスコミの、欺瞞と傲慢さと不正をごりおしする態度を、厳しく問い返します。
    「ところが、いま、他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず、かえって追従してそれを誉めてたたえて正義であるといっている。」

     繰り返しますが、墨子のこの「非攻」の考えに私は心から共感します。人間のまなざし、嘘偽りを許さず、本当のことを見つめ、言おうとする、単純な、素朴な、強く、美しい、意思があるからです。

     好戦的な政治屋は、口が上手く、賢しらで、あらゆる手を使い、卑劣も感じず、大義をおしつけ、「戦争することが必要だと」、人間を騙し、人間を殺しても、自分さえ死ななければ、何も感じず、平気です。自らが最前線の兵士とならない限り、人間が、人間に、人間を殺せと、命じる資格は、たとえ誤った法律が強制しようと、ありません。誰にもありません。
     だから、集団が、法律が、誤った嘘を押付けようとするとき、墨子の言葉のように、「戦争は悪だ」と、繰り返しつづけ、生きようとする人間でありたいと、私は考えます。

    ●以下は、出典からの原文引用です。

    第十七 非攻(ひこう)篇 上

    一 いま一人の男がいて、他人の果樹園に忍びこんでそこの桃や李(すもも)の実を盗んだとすると、人々はそれを聞いて非難し、上にあって政治を行なう人はその男をつかまえて罰するであろう。それはなぜであるか。他人に損害を与えて自分の利益をはかるからである。
     ところで、他人の犬や鶏や大阪・小豚を盗むということになると、そのよくないことは、他人の果樹園に忍びこんで桃や李の実を盗むよりもいっそうひどい。それはどんな理由によるものか。他人に損害を与えることがいっそう大きいからである。もし他人に損害を与えることがいっそう大きければ、その薄情ぶりもいっそうひどいわけで、したがって罪もいよいよ重くなる道理である。さらに他人の厩舎(きゅうしゃ)に忍びこんで、人の馬や牛を盗みだすということになると、そのよくないことは、他人の犬や鶏や大豚・小豚を盗むよりいっそうひどい。(略)さらにまた罪もない人を殺してその着物をはぎ取り戈(ほこ)や刀剣を奪い取るということになると、そのよくないことは他人の厩舎に忍びこんで馬や牛を盗み出すよりもいっそうひどい。それはどんな理由によるのか。他人に損害を与えることがいっそう大きいからである。もし他人に損害を与えることがいっそう大きければ、その薄情ぶりもいっそうひどいわけで、したがって罪もいよいよ重くなる道理である。

    二 さて、以上のような事件は、世界じゅうの知識人はだれでもそれを知ったなら非難し、それをよくないことだという。ところが、いま他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず、かえって追従(ついしょう)してそれを誉めたたえて正義であるといっている。これでは、正義と不正義との区別をわきまえているといえようか。

    三 いま一人の人間を殺害すると、それを不正義として、きっと一つの死刑の罪があてられる。もし、この道理をすすめてゆけば、十人を殺害すると十の不正義をかさねたことになって、きっと十の死刑の罪が適用され、百人を殺害すると百の不正義をかさねたことになって、きっと百の死刑の罪が適用されるわけである。こうした事件は、世界じゅうの知識人はだれでもそれを知ったなら非難し、それをよくないことだという。ところが、いま、他国を攻撃するという大きな不正義を働くものについては、それを非難することを知らず。かえって追従してそれを誉めてたたえて正義であるといっている。他国を攻撃するのが不正義であるということを、本当に知らないのである。だから、攻撃をすすめるようなことばを書きつらねて、後世に伝えるようなこともするのである。もしそれが不正義だとわかっていたら、そんなよくないことを書きつらねて後世に伝える理由はないはずである。

    四(略)ところで、いまほんの少しよくないことをしたときには、それを認めて非難するが、他国を攻撃するという大きな悪事を働く場合には、それを非難することを知らず、かえって追従してそれを誉めたたえて正義であるといっている。これでは、正義と不正義との区別をわきまえているといえようか。以上のようなわけで、世界じゅうの知識人の正義と不正義との区別のしかたが、でたらめであることがわかるのである。

    出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)

     最後に、今回の主題と響きあう私の詩をこだまさせます。

       詩「白黒が、セピア色に染まるまで             (作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)

     戦争がもたらす悪があり、原発がもたらす悪があります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。

     次回は『墨子』をみつめる最終回、さらに彼の「非攻」を感じとります。


    ☆ お知らせ ☆

     『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日イーフェニックスから発売しました。
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        こだまのこだま 動画  

      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:30

    2014年02月09日

    新しい詩「ゆき、恋うた ・ ゆきのおと」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「ゆき、恋うた」に、ちいさなゆきのうたの花をもういちりん咲かせ、公開しました。

    詩「ゆき、恋うた ・ゆきのおと
                   (クリックでお読み頂けます)。


     こちらが連作の全体になります。お読みいただけると嬉しいです。

    詩「ゆき、恋うた」
    ・ゆき
    ・ゆきんこ
    ・ ゆきのおと
    ・ゆきだるま
    ・ゆき
    ・ゆき、恋うた


     ☆ お知らせ ☆

     『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日イーフェニックスから発売しました。
    (A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
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        こだまのこだま 動画  

      


  • Posted by 高畑耕治 at 19:00

    2014年02月09日

    新しい詩「ゆき、恋うた」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「ゆき、恋うた」を、公開しました。

    詩「ゆき、恋うた」
    ・ゆき
    ・ゆきんこ
    ・ゆきだるま
    ・ゆき
    ・ゆき、恋うた

    (クリックでお読み頂けます)。 


    ちいさなゆきのうたの花です。
    お読みくだされば、とても嬉しく思います。


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  • Posted by 高畑耕治 at 10:15

    2014年02月09日

    新しい詩「みかづき」をHP公開しました。

     私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」に、新しい詩「みかづき」を、公開しました。

       詩「みかづき」   (クリックでお読み頂けます)。


    ちいさな歌の花ですけれど、お読みくださると、とても嬉しく思います。


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    ☆ 全国の書店でご注文頂けます(書店のネット注文でも扱われています)。
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    絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
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  • Posted by 高畑耕治 at 10:10

    2014年02月08日

    ゆきに。愛するひとに。

    いちめんまっしろ ゆきのはら
    いちめんまっしろ ゆきのはな


    愛するひとに。

    詩「雪野原

    (クリックしてお読み頂けます)。


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  • Posted by 高畑耕治 at 13:10

    2014年02月08日

    『墨子』(四)兼愛。他人がたたかれた場合に。

     中国の戦国時代に生きた諸子百家の一人、墨子(ぼくし、紀元前470年ごろ~390年ごろ)の言葉を、彼の弟子たちがまとめた書『墨子』から読みとり考えています。

     今回の主題は前回に続き、兼愛です。

     墨子の行動と問答を弟子が記した「耕柱篇」から彼の考え心に残る二つの章を引用しました。

     一つ目の逸話。
     この話に私は現代の国際社会におかれたこの島国、日本のことを思います。 
    「放火」により燃え広がる火事は、軍事拡大競争。その状況下に「そこへ二人の男がやってきて、一人は水を持ってきて火にかけようとするし、他の一人は火を持ってきてさらに火事をひろげようとする。」
     この国の政治屋は、武器、人殺しの道具を輸出しようとしたり「火を持ってきて火事をひろげようとする」ことばかりに血眼です。
     火事をひろげてしまえば、焼け野原だけしか残りません。愚かな選択はやめさせることが必要です。

     二つ目の逸話。
     この話で、墨子の対話相手の巫馬子(ふばし)は次のように言います。
    「自分がたたかれたときには痛いと感ずるが、他人がたたかれた場合には、自分では痛みを感じない。」
     現実主義者的なこの者の言葉に私は思います。
     「自分がたたかれたとき」痛いと感じるのは、生き物、動植物すべてです。人もまた動物として当然そのように感じます。でもそれだけなら、人は動物であるだけです。
     「他人がたたかれた場合に」肉体的に「自分では痛みを感じない。」けれど、他人の痛みを思い、自分の心に痛みを感じてしまうのが、そのような心、魂をもちうるのが、人間であることの証ではないでしょうか?
     
     続けて巫馬子(ふばし)は言います。
     「わたくしには、自分の利益のために他人を殺すということがかりにあるとしても、他人の利益のために自分を殺すということはけっしてありません」
     それに対して墨子は、次のように返します。
     「あなたの信条に賛成する者も、あなたを殺そうとするし、あなたの信条をこころよく思わない者も、あなたを殺そうとする。」
     
     私は思います。憎悪は憎悪しか生まない。殺意には殺意しか返ってこない。
     自国の利益のために他国を殺そうとするなら、信条に賛成する国も、信条をこころよく思わない国も、この国に生活する者を殺そうとする。
     だから、他国に生活する人たちを殺そうとするような愚かな選択だけはしてはいけない。そのような選択を押付けようとする政治屋には、決して、生活する者がしあわせを感じる社会などつくれない。そのような政治屋は社会の未来にとって有害だから、できるだけ早く、辞めさせ、代えないといけない。
     一市民、一生活者として、私は強く思っています。

    ●以下は、出典からの原文引用です。

    ■ 耕柱篇から。

     巫馬子(ふばし)が墨子先生にむかっていった。「あなたはせかいじゅうをひろく平等に愛されるが、まだその利益があがってはいません。わたくしは世界中を愛するわけではありませんが、格別その害があるわけでもありません。実際の効果がまだどちらもあらわれていないのに、あなたはどうしてまた自分の主張を正しいとして、わたしの主張を悪いとするのですか」
     墨子先生はいわれた。「もしここに放火した者がいたとしましょう。そこへ二人の男がやってきて、一人は水を持ってきて火にかけようとするし、他の一人は火を持ってきてさらに火事をひろげようとする。実際の効果はまだどちらもあらわれていないが、この場合この二人について、あなたはどちらのほうを尊重しますか」
     巫馬子がこたえて、「わたくしは、その水を持ってきた者の心がけを正しいとして、その火を持ってきた者の心がけを悪いとします」というと、墨子先生はいわれた。「わたしも、またやはりわたしの心がけを正しいとして、あなたの心がけを思いとしているのだ」


    ■ 耕柱篇から。

     巫馬子(ふばし)が墨子先生にむかっていった。「わたくしはあなたの意見とは違います。わたくしにはひろく平等に大切にすることはできません。わたくしは、遠い越(えつ)の国の人よりは隣の鄒(すう)の国の人を大切にします。鄒の国の人よりは自分の魯(ろ)の国の人を大切にします。魯の国の人よりは自分の郷里の人を大切にします。郷里の人よりは自分の家族の人々を大切にします。家族の人々よりは自分の親を大切にします。親よりも自分の体を大切にします。いずれもわたくしにとって身近いと思うからのことです。自分がたたかれたときには痛いと感ずるが、他人がたたかれた場合には、自分では痛みを感じない。痛みを感ずるわが身を守ることをせずに、痛みを感じない他人を守るということは、わたくしにはとても理解できません。だから、わたくしには、自分の利益のために他人を殺すということがかりにあるとしても、他人の利益のために自分を殺すということはけっしてありません」
     墨子先生はいわれた。「あなたのその信条は、人に隠しておこうとされるのか、それとも人に知らせようとされるのか」。巫馬子はこたえた。「どうしてまたわたくしの信条を隠す必要がありましょう。わたくしは人に知らせるつもりです」
     墨子先生はいわれた。「そうだとすると、一人でもあなたの信条に賛成して共鳴する者もあれば、その一人の共鳴者は、自分の利益のためにあなたを殺したいと思うだろう。十人があなたの信条に賛成したのなら、その十人が自分の利益のためにあなたを殺したいと思うし、世界じゅうの人々があなたの信条に賛成したなら、世界じゅうの人々が自分の利益のためにあなたを殺したいと思う。ところがまた、一人でもあなたの信条をこころよく思わない者があれば、その一人の反対者はあなたを殺したいと思うだろう。あなたのことをふらちな主張をひろめる奴だと考えるからです。十人があなたの信条をこころよく思わないのなら、その十人があなたを殺したいと思う。あなたのことをふらちな主張をひろめる奴だと考えるからです。世界じゅうの人々があなたの信条をこころよく思わないのなら、世界じゅうの人々があなたを殺したいと思う。あなたのことをふらちな主張をひろめる奴だと考えるからです。
     してみると、あなたの信条に賛成する者も、あなたを殺そうとするし、あなたの信条をこころよく思わない者も、あなたを殺そうとする。これこそ、いわゆる軽口(かるくち)はその身を殺すというものです。
     あなたの主張は、いったい何の利益があろう。もし、利益もないのに無理に主張をするということなら、これは口をすりへらすだけです。

    出典:『諸子百家 世界の名著10』(編・訳:金谷治1966年、中央公論社)

     最後に、今回の主題と響きあう私の詩をこだまさせます。

       詩「十四歳。いのち、巣立ち。」から。
             「公園で ( 福島の同窓生に )

    (作品名をクリックしてご覧になれます。お読み頂けましたら嬉しいです。)

     戦争がもたらす悪があるように、原発がもたらす悪はあります。悪を行なわせてはいけないと、一市民として私は思います。
       
     次回も、『墨子』の世界のもう一つの核「非攻」を感じとります。



     ☆ お知らせ ☆

     『詩集 こころうた こころ絵ほん』を2012年3月11日イーフェニックスから発売しました。
    (A5判並製192頁、定価2000円消費税別途)
    ☆ 全国の書店でご注文頂けます(書店のネット注文でも扱われています)。
    ☆ Amazonでのネット注文がこちらからできます。
        詩集 こころうた こころ絵ほん

     イメージング動画(詩・高畑耕治、絵・渡邉裕美、装丁・池乃大、企画制作イーフェニックス・池田智子)はこちらです。
    絵と音楽と詩の響きあいをぜひご覧ください。
        こだまのこだま 動画  

      


  • Posted by 高畑耕治 at 10:00