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高畑耕治
高畑耕治

2013年12月19日

赤羽淑の論文から(一)。『源氏物語』、光、匂、薫。

 私の愛読書『定家の歌一首』(1976年、桜楓社)の著者、国文学者の赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授が、私の次の二篇のエッセイに目をとめ、お言葉をかけてくださいました。

藤原定家の象徴詩 
月と星、光と響き。定家の歌 
(クリックしてお読み頂けます。)
 
 源氏物語の女性についての著書や、藤原定家の全歌集を編んでもいらっしゃいます。私も愛する『源氏物語』や和歌をみつめつづけ深く感じとられ伝えていらっしゃる方ですので、とても嬉しく思いました。

 『源氏物語』式子内親王の和歌を主題にされた赤羽淑名誉教授の二編の論文を読ませていただけたことで、私が憧れ尊敬する二人の女性、紫式部と式子内親王の作品に感じとることができた詩想を三回に分け記します。

 今回は『源氏物語』をみつめた論文「源氏物語における呼名の象徴的意義 ―「光」「匂」「薫」について―」です。

 私はこの論文を読んで、紫式部を想います。『源氏物語』を書き連ねる時間に、光源氏、匂宮、薫とともに息をしていた紫式部の面影が浮かびます。
 彼女は物語に生きる男性に語りかけながら、呼びかけながら、筆を進めたでしょう。執筆にのめりこんでいた日々には、間近に存在を感じて生活し、共に眠り、契り、夢にまで現われたでしょう。

 赤羽淑はこの論文で、紫式部が彼らに与え呼びかけた名前、「光」「匂」「薫」、それぞれの言葉に込めら想い、それぞれの言葉から立ちのぼり現われ出るもの、象徴しているものを、あくまで原典、紫式部の言葉をみつめ、用例を丁寧にひろいながら、教えてくれます。

 たとえば、作中にちりばめられた光の描写の諸相を見つめることで得られた認識野言葉、「光の、感覚的に具象化された美は、月夜の雪や曙の白光によって一層輝き出す清浄冷厳な美」、その感受力から生まれた言葉に、私は深い共感を覚えます。

 また、「匂」という言葉はその源では、視覚的な意味をも持っていたとして、「薫」と対比してゆく論述は言葉の年輪を見つめているのがとても魅力的で、惹きこまれます。

 『源氏物語』は大河のような絵巻物ですから、私も一読者として私自身のこころの在り様からの好みがあります。
 光に対しては、物語の上流にある、貴公子としての面目躍如の輝きばかり眩しい絶頂期よりは、畏れや疑いといった負の感情、病や悲しい出来事が増えてくる、物語が下流に近づくにつれて、感情の深み、人間の多様な心もようへの共感が増してゆくのが感じられ、私は引き込まれてしまいます。
 また、宇治十帖の二人の男性に対すると、「匂」より「薫」の感じ方、考え方、生き方に、共感するものを感じます。
(ただそれは、現在の年齢が影響している気もします。私がいま青春期にいたら、恋愛狂い、恋愛の機微、諸相がきらびやかに展開する、物語の上流にこそ惹かれるだろうとも思います)。

 赤羽淑は、「光」は、「匂」と「薫」の両面を分身としてあわせもった人物だと、目を見開かせてくれます。
 光は出生した日から、明と暗をあわせもって生まれ、貴公子時代にも影がある人間だったから、魅力的なのだと教えられます。
 「天上的発光体―日月など―の強烈な豪華さはないが」、「月夜の雪や曙の白光によって一層輝き出す清浄冷厳な美」です。
 そのような男性に育て、生きさせたのは、紫式部の人間についての深い心の眼差しがあったからこそとも感じます。

 宇治十帖、浮舟に私は強く惹かれてしまいますが、「薫」と「匂」の両極の、対照的な男性の間で、恋に激しく揺れ動き翻弄され引き裂かれる若い女性の魂の悲しみに、「人間」と「運命」を想わずにいられない、作者の渾身の想いの強さを感じるからです。

 『源氏物語』を深く愛する赤羽淑は、これらのことを、次のようなとても明瞭な言葉で伝えてくれます。
 「全く対照的な性格描写は類型的なようであるが、それは単なる類型ではなく、宇治の世界に於ける普遍的な人間性の葛藤や苦悩、更には深い世界観を描出する為の巧妙な構想力である。
 最後のクライマックスたる浮舟の悲劇は、この二人の個性の設定から必然的に発展するものに外ならない。「光」・「匂」・「薫」という三人の微妙な陰影と運命を荷う人間像は、ひかり・にほふ・かをるという名にいみじくも象徴化されている」。

 言葉のもつ象徴性について、深く感じとらせてくれる優れた論文です。


● 以下は、出典原文の引用です。(私が現代仮名遣いに変え、改行を増やしています。)

匂宮の冒頭は、「光かくれ給ひにし後、かの御影に立ち継ぎ給ふべき人、そこらの御末々にあり難かりけり。」と書き出されている。「光云々」は、直接には、光源氏の薨去を指すのであるが、それと共に、世の希望、光明の消滅と、暗黒の世界の到来を暗示している。即ち、「光」は、光源氏という特殊な個人的存在を表わすと同時に、それに附随し、源氏物語の世界全体を光被する一般的普遍的観念をも意味している。ここに、「光」という名が、源氏という個人に偶然に与えられたものでないことが分る。
 同様のことは、「匂」と「薫」についても指摘することが出来る。光隠れた後の残影の中に現われる「匂」と「薫」は、文字通り光の分身であるが、それぞれに異った個性を有して宇治の世界を展開させる。その対照的な人間像は、「匂」と「薫」という呼名にいみじくも象徴されているのである。われわれは、ここに、作者の象徴的表現の絶妙さを認めることが出来る。
(略)
 以上の考察によって源氏物語における光の性格が明らかであるが、要約すると、源氏という個人の崇高な精神美と、高貴な身分から発する光の、感覚的に具象化された美は、月夜の雪や曙の白光によって一層輝き出す清浄冷厳な美である。それは天上的発光体―日月など―の強烈な豪華さはないが、世の人々に希望を与え来世へ導く光明となり、源氏物語の世界を普く光被するのである。この意味で個人的存在に普遍性が与えられ、そこに「光源氏」が源氏物語を統一する理想的存在としての高い意義が認められるのである。
(略)
 要約すると「薫」の内面的で崇高な美に対する「匂」の華美な官能美、薫の自然的生得的芳香に対する「匂」の技巧的人工的な匂、「薫」のつつましく思い澄した道心に対する「匂」の浮気な徒心(あだごころ)、「薫」の内省的懐疑的消極性に対する「匂」の外抗的意志的積極性、「薫」の陰鬱性に対する「匂」の明朗性、以上の全く対照的な性格描写は類型的なようであるが、それは単なる類型ではなく、宇治の世界に於ける普遍的な人間性の葛藤や苦悩、更には深い世界観を描出する為の巧妙な構想力である。最後のクライマックスたる浮舟の悲劇は、この二人の個性の設定から必然的に発展するものに外ならない。「光」・「匂」・「薫」という三人の微妙な陰影と運命を荷う人間像は、ひかり・にほふ・かをるという名にいみじくも象徴化されているのであり、その人物と名前との本質的有機的な相互関係において、言語記号のもつ最高の機能を十分に果たし得ているのである。

● 原文引用終わり。

 出典:赤羽淑「源氏物語における呼名の象徴的意義 ―「光」「匂」「薫」について―」『文芸研究』28号、1958年。

 次回は、式子内親王の和歌についての赤羽淑名誉教授の論文を通して詩想を記します。


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