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高畑耕治
高畑耕治

2014年02月28日

赤羽淑「式子内親王における詩的空間」(二) はるかな空間を、ここに。

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。

 今回は前回に続き、論文「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた私の詩想を記します。

◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1

   ながめ侘びぬ秋より外の宿もがな野にも山にも月やすむらん(C百首 二四八・新古今秋上 三八〇)
  <ながめわびぬ あきよりほかの やどもがな のにもやまにも つきやすむらん>

 この歌の作者は月を眺めている。と同時に月に眺められ、隈なく照らし出されている。どこへ行っても遁れようのない寂寥感がそこにはある。(略)自然を眺めながら、逆に自然から眺められ、自然の中に投げ出されている自分の姿を感じているのである。晩年の作である正治百首において、内親王はこのような二重の視覚を獲得するようになる。
 宿を立ち出でてどこへ行っても寂寥から遁れられないのなら、いっそのことここにじっとして動かずにいようと思う。そして眺めの視線だけをどこまでも往かせようとする。見ること、感ずることに徹しようとするのである。(略)(出典引用1終わり)

☆ 自然を眺め、自然から眺められ
 月を眺め、月に眺められる、歌の作者の寂寥感についてのこの叙述に、私は赤羽淑の寂寥感が重なって感じられます。文章をとおして、人間としての共感、自分の心との重なりを感じとる心を感じます。感情移入して心に感動を覚えることは、文学の鑑賞、研究においてさえ、花咲く言葉をささえ、しっかり根付く土壌ではないかと私は思います。

「どこへ行っても寂寥から遁れられないのなら、いっそのことここにじっとして動かずにいようと思う。」「見ること、感ずることに徹しようとする」、この生き方は、文学に生きようとする人間に共通する、私も深く共感を覚える真実のように感じます。文学作品を書くという行為は、世界各地をくまなく巡り写真を撮り紀行文を書くという行動とは対極にあって、動かず、机の前での孤独な行為です。体を動かすことを、諦めたうえでの。そこに生きようとする者は、心の遥かな旅で地球の隅々、宇宙の果て、過去と未来、永遠まで、感じ尽くそうとします。

◎出典からの引用2
 眺める存在であると同時に眺められる存在であるという自己意識は、内親王が幼女時代から少女時代にかけて十一年ほど加茂の斎院として過された体験と無関係ではあるまい。神館の女主人として幼いときから中心的存在であったかの女は神聖な館の奥深くかくまわれているという意識と、人びとの注目をつねにあびているという意識と、背反する二重の意識をすでに幼いころからもたざるを得なかったのではなかろうか。(出典引用2終わり)

☆ 加茂の斎院として
 幼女、少女時代、思春期を、生まれた身分から斎院として過ごし、結婚しなかった式子内親王が、「眺める存在であると同時に眺められる存在であるという自己意識」をもたざるを得なかった、のはその通りではないかと私は思います。彼女の歌の、悲痛な静けさも、この相克の痛みからもれでた声のようにも、悲しく感じます。だからこそ、歌わずにはいられない魂の人であったのだとも。

◎出典からの引用3

 このような意識の特殊性が晩年にはつぎのような達成をみる。

   山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(C百首 二〇三・新古今春上 三)
  <やまふかみ はるともしらぬ まつのとに たえだえかかる ゆきのたまみず>

   今桜咲きぬと見えて薄曇り春に霞める世の景色かな(C百首 二一〇・新古今春上 八三)
  <いまさくら さきぬとみえて うすぐもり はるにかすめる よのけしきかな>

   花は散てその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる(C百首 二一九・新古今春下 一四九)
  <はなはちりて そのいろとなく ながむれば むなしきそらに はるさめぞふる>

 これらの歌における感性の特性は、まずそれらが求心的な方向をもっているということであろう。作歌主体の聴覚や視覚のうちに周囲の動きを取り込む。それからその感覚を今度はできるかぎり遠くまで解放する。
 これらの歌によってわれわれが描くヒロインは、「松の戸」「苔の扉」などのイメージがふさわしい巷を遠く離れた閑静な場所に自分を住まわせている。そこにじっと坐って移り変わる外の景色を眺め、自然の気配を感じている。神経を研ぎ澄ませ、意識を集中して、世の出来事や、自然の現象を一心に捉えようとしている。そして自分は動くことなく、かすかな周囲の動きを捉えている。

 このように内親王はつねに、眺める存在と眺められる存在の二重性の中に自己を感じ、閉ざすものと閉ざされるもの、意志的なものと受け身的なものの交差するところに詠ずる主体を位置させている。そして閉ざされた狭い世界の内側で、外の景色を眺め、心の奥を凝視し、恋することを夢想するという単純なモチーフを繰返すうちに、限りなくはるかな空間まで自己の感性の中に取り込むことができるようになる。逆な言い方をすれば、限りなくはるかな空間を、身を置く場所<ここ>において捉えることができためずらしい歌人だったのである。
(出典引用3終わり)

☆ はるかな空間を感性の中に
 赤羽淑の、式子内親王の理解が、人間性全体を体感するような、真実のものであったことが伝わってきます。
 想い描かれたヒロイン、式子内親王の姿と息遣いまでもが、目の前に見え感じられるようです。
 「じっと坐って移り変わる外の景色を眺め、自然の気配を感じている。神経を研ぎ澄ませ、意識を集中して、世の出来事や、自然の現象を一心に捉えようとしている。そして自分は動くことなく、かすかな周囲の動きを捉えている。」
  このように式子内親王は、いのち、世界に向き合い、歌ったのだと思います。

 「そして閉ざされた狭い世界の内側で、外の景色を眺め、心の奥を凝視し、恋することを夢想するという単純なモチーフを繰返すうちに、限りなくはるかな空間まで自己の感性の中に取り込むことができるようになる。」
  これは、歌人の、詩人の、理想とする生き様、詩人としての私の理想です。彼女の晩年と同じ年齢にあるいま、私もまた、「限りなくはるかな空間を、身を置く場所<ここ>において捉えることができ」る詩人でありたいと、願い、創作しています。

出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた詩想です。



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    Posted by 高畑耕治 at 19:30 │