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高畑耕治
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2014年03月04日

赤羽淑「式子内親王における詩的空間」(四) 痛烈な呼びかけと、孤独と

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。

 今回も前回に続き、論文「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた私の詩想を記します。

◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
 三
 内親王は奥深い住居に籠り、孤独に住しながら、心の扉、感性の扉は、外部に向かっていっぱいに開き、敏感に感応していた。「松の戸」と同じような傾向の歌語として「槇の戸」や「柴の戸」をしばしば使う。「槇の戸」や「柴の戸」は「さす」(鎖す)ものである。ところが、内親王の歌では「ささでならひぬ」とあって、鎖さないことが習慣になっているような言い方をしている。

   槇の戸はささでならひぬ天の原夜渡る月の影にまかせて (A百首 五二)
  <まきのとは ささでならいぬ あまのはら よわたるつきの かげにまかせて>

(略)「月の影にまかせる」というのは、月光のさすにまかせることである。(略)それは伝統的なポーズでもあった。(略)
 ところが、式子内親王の

   君待つとねやへも入らぬ槇の戸にいたくなふけそ山のはの月 (D三二〇 新古今恋四 一二〇四)
  <きみまつと ねやにもいらぬ まきのとに いたくなふけそ やまのはのつき>

(略)ここにも詠歌主体の語調がまぎれもなく表出されている。それは、「いたくなふけそ山のはの月」という命令形である。前に、「幾重もとぢよ蔦の紅葉」の強い命令調に、矛盾し背反する心の錯綜をみたのであるが、この、「いたくなふけそ」と山のはの月に向かって発する語調には、何かはげしい抗いの声を聞きとることができないだろうか。さきに、「月の影にまかせて」といい、ここで、「いたくなふけそ」と反撥した言い方をする。受身と反動、随順と抵抗という相反する態度がここでも共存している。内親王の内向的な閉鎖性はよく言われるところであるが、それとは裏腹に以上のような外交的な傾向も見のがすことができない。(出典引用1終わり)

☆ はげしい抗いの声
 赤羽淑は二首の歌を通して、「奥深い住居に籠り、孤独に住しながら、心の扉、感性の扉は、外部に向かっていっぱいに開き、敏感に感応していた」式子内親王の心のありようを感じとります。
 「月の影にまかせて」と「月光のさすにまかせる」受身の、随順な姿の一方で、「「いたくなふけそ」と山のはの月に向かって発する語調に」、「何かはげしい抗いの声を」、反動と抵抗の声を聴きとります。孤独の深さ、寂寥の極みからの、心の痛みの声です。
 「相反する態度」が「共存している」こと感じうるとき、歌人の心をまるごと受けとめているのだと、私は感じます。
私はまた、式子内親王の、月に対する姿が、まるで愛する人と向き合う姿、そのままのようにも感じます。孤独、寂寥の極みで、彼女は月を、痛く愛していた、と思います。

◎出典からの引用2
 命令形は、他者に対する痛烈な呼びかけである。内親王は自問自答する歌人であったが同時に他者と対話する人でもあった。石川常彦氏は、内親王の恋歌の中でもっとも特徴をもつ表現として命令態をあげ、そこに内親王の個性を読みとっておられる。内親王の歌の命令態は、相手対表現者という直接の呼びかけの表現が崩れ、「自己乃至はその分身的形象への命令態」となり、「玉の緒よ」の歌

   玉のをよ絶えなばたえねながらへば忍ぶる事のよわりもぞする(新古今・1034)
  <たまのおよ たえなばたえね ながらえば しのぶることの よわりもぞする>

においては、「対置され、対象化されることの極として回帰した自己」が表現されることになると指摘されている。これは、式子内親王の詩的空間の構成の原質にもかかわる重要な発言と思われる。

 内親王はつねに対者を意識する歌人であった。対者がいない場合、またはそれが自然だったりする場合に、その孤独はますます自己にはねかえってくる。そして孤独な場所が強調されるのである。このように他者との関係を意識し、対立的に捉える傾向は、彼女の詩的空間の構成原理となっている。

 内親王の空間は、まず心と身、または心と袖、心と枕などの対立関係にはじまる。(略)相対立するものへの呼びかけ、または命令などの運動のくりかえしのうちに、自己の存在をたしかめていたようなところがある。「いたくなふけそ山のはの月」に似た呼びかけは、すでに第一の百首の

   寂しさはなれぬる物ぞ柴の戸をいたくなとひそ峯の木枯 (A百首 五二、続後拾遺雑中 一〇六一)
  <さびしさは なれぬるものぞ しばのとを いたくなといそ みねのこがらし>

などにみられ、それは死の前年に詠まれた

   ながめつる今日は昔に成ぬとも軒端の梅は我を忘るな (C百首 二〇九、新古今春上 五二)
   <ながめつる きょうはむかしに なりぬとも のきばのうめは われをわするな>

に至るまで一貫してくりかえされるかの女のいわば自己同一性だったのではなかろうか。(出典引用2終わり)

☆ 他者に対する痛烈な呼びかけ
 赤羽淑が式子内親王の「詩的空間の構成原理」を、「他者との関係を意識し、対立的に捉える傾向」にあると見出した、この論文の核心をなす論述です。式子内親王の歌の強い特性である命令態について、「命令形は、他者に対する痛烈な呼びかけ」だと感受します。
 つぎに「内親王はつねに対者を意識する歌人であった。」というとき、私は「対者」という言葉が指し示しているものは「愛する人」だと言い換えられると感じます。何より心が強く求めずにはいられない。
 たえず待ち続ける愛する人がそばにいない場合、またはいないからこそ心を投げかけられるものが自然だったりする場合に、その孤独はますます自己にはねかえってくる。そして孤独な場所が強調されるのである。

 だからこそ、内親王の月への言葉は、人間、想う人、愛する人への言葉そのもののように、痛切で、心に沁みわたります。愛する人への呼びかけが痛烈であればあるほど、孤独も、痛烈、悲痛です。そのような「自己の存在をたしかめ」彼女は生き、歌った。そうすることしかできなかった。「かの女のいわば自己同一性だった」。
 赤羽淑は、式子内親王の、魂をとらえました。とらえつつ自分の魂をともにふるわせたと、感じつつ私の魂もまた、二人とともにふるえます。

出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。

 次回も、赤羽淑「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた詩想です。




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    Posted by 高畑耕治 at 19:30 │