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高畑耕治
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2014年03月06日

赤羽淑「式子内親王における詩的空間」(五)  来る人を夢想する、歌に詠みつづける

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとっています。

 今回は、論文「式子内親王における詩的空間」に呼び覚まされた私の詩想の最終回です。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
 四(略)
 内親王はくりかえし「軒」または「軒端」という言葉を使う。「松の戸」や「槇の戸」においてもそれは同じであったが、この家に関するイメージへの偏向は、一体何に由来するのであろうか。
(略)内親王がそこに身を託そうとする軒は、

   庭の苔軒のしのぶは深けれど秋のやどりになりにけるかな (B百首 一三七)
  <にわのこけ のきのしのぶは ふかけれど あきのやどりに なりにけるかな>

   たのみつる軒ばの真柴秋くれて月にまかする霜の狭筵 (B百首 一六二)
  <たのみつる のきばのましば あきくれて つきにまかする しものさむしろ>

季節の訪れや月の訪れには全く無防禦である。

   古郷は葎の軒もうらがれてよなよなはるる月の影かな (C百首 二五〇)
  <ふるさとは むぐらののきも うらがれて よなよなはるる つきのかげかな>

この家の軒は、自然からそこに住む人を保護し、隔離するものではなく、逆に自然の中にさらし、むき出しにする。(略)
   吹かぜにたぐふ千鳥は過ぬなりあられぬ軒に残るおとづれ (A百首 六七)
  <ふくかぜに たぐうちどりは すぎぬなり あられぬのきに のこるおとずれ>

「あられぬ」とは、「そうであってはならない」、「似合わしくない」、「あられもない」などの意である。この「あられぬ軒」は、吹風といっしょに過ぎてゆく千鳥の声を隔てるものもなく家にいるものに残してゆく。しかしそれと同時に自然との交流を直接にし、スムースにするものでもある。(略)

   苔深く荒れ行軒に春見えてふりずも匂ふ宿の梅かな (B百首 一〇六)
  <こけふかくあれゆくのきに はるみえて ふりずもにおう やどのうめかな>

   古を花橘にまかすれば軒の忍ぶに風かよふなり (C百首 二二九)
  <いにしえを はなたちばなに まかすれば のきのしのぶに かぜかようなり>
このようにして軒端は内親王がそこに立ち、眺め、自然と対話する場所であり、また、

   たえだえに軒の玉水おとづれて慰めがたき春のふる里 (B百首 一一七)
  <たえだえに のきのたまみず おとずれて なぐさめがたき はるのふるさと>

   五月雨の雲は一つに閉ぢ果ててぬき乱れたる軒の玉水 (C百首 二二八)
  <さみだれの くもはひとつに とじはてて ぬきみだれたる のきのたまみず>

自然の訪れを迎える場所でもある。かの女はそこに眺めわび、住みわびているように見えるが、逆にこの孤独に閉ざされた住居が別世界のような限りなく豊かな詩的空間を展開させるものとなる。(略)

 内親王のように、他者の目を意識し、人を待ち暮らしている存在にとって、その他者が不在であり、また来ぬ人であった場合にどういうことがおこるのであろうか。それでもかの女は来る人を夢想するのであり、不在の他者と会話を交わし、それを歌に詠みつづけるのである。(略)(出典引用1終わり)

☆ かの女は来る人を夢想する
 ここで赤羽淑は、内親王とともに、「軒」「軒端」に、「季節の訪れや月の訪れには全く無防禦で」、「そこに立ち、眺め、自然と対話」し、「自然の訪れを迎え」、内親王の歌に心の耳を澄ませているようです。清澄な歌に、私も心が落ち着き癒される想いがします。
 「この孤独に閉ざされた住居が別世界のような限りなく豊かな詩的空間を展開させるものとなる。」

 詩歌とは、このようなものだと私も考えています。そして続けられる次の言葉は、詠まずにはいられない歌人の心、書かずにはいられない詩人の心、詩歌の魂を、明かしています。
「内親王のように、他者の目を意識し、人を待ち暮らしている存在にとって、その他者が不在であり、また来ぬ人であった場合にどういうことがおこるのであろうか。それでもかの女は来る人を夢想するのであり、不在の他者と会話を交わし、それを歌に詠みつづけるのである。」
 私は私の心を言葉にされたように感じます。

◎出典からの引用2
 五
(略)さきに見たように、内親王の歌における家のイメージは、家の原型のように簡素である。そして「松の戸」で代表されるような山家である。その寝室は槇の戸に直接通じ、月光や落葉まで入りこむ。屋根には時雨が訪れ、籬(まがき)には鹿と虫が鳴く音を合わせる。庭にはいずれの峰の花なのか、落花が滝のように散ってくる。内親王の描く家は最小限に小さく、自然に対しては限りなく開かれている。

 皇女という不自由な身分が逆にこのような家のイメージを抱かせたのだろうか。歌において家を題材にすることは山家や田家に限られていたことが、かの女の家へのイメージをこのようなものにしたのだろうか。それはともかくとして、第一の百首から第三の百首に至るまで、現実の内親王の御所がどんな風に変わろうとも、かの女の家に対する意識は変わらなかった、(略)
 このような山家が当時の歌の類型的なパターンであったにしても、「松の戸」が、「陵園妾」の表現を倣ったものであったとしても、くりかえし「山深くやがて閉ぢにし松の戸に」回帰してゆくところに、内親王たる所以が見出しうるように思われる。(出典引用2終わり)

☆ 家は最小限に小さく、自然に対しては限りなく開かれて
 赤羽淑はこの論文をまとめるにあたり、「内親王の歌における家のイメージ」を水彩画のスケッチのように美しく描いています。
 簡素な「松の戸」で代表されるような山家。「その寝室は槇の戸に直接通じ、月光や落葉まで入りこむ。屋根には時雨が訪れ、籬(まがき)には鹿と虫が鳴く音を合わせる。庭にはいずれの峰の花なのか、落花が滝のように散ってくる。内親王の描く家は最小限に小さく、自然に対しては限りなく開かれている。」

 このさりげない描写に私は、赤羽淑の、自然に対して限りなく開かれている、簡素な家への、愛情を感じます。そのような住いを愛した女性、式子内親王への共感が言葉からこぼれだしています。
 最近のエッセイで、お住いの庭に咲く小さな花たちを描かれていましたが、自然にゆれるしずかな花の姿を愛する眼差しの優しさが、式子内親王のまなざしと重なり、私の心にも美しい歌の花を咲かせつづけてくれます。

出典:赤羽淑「式子内親王における詩的空間」『古典研究8』1981年。

 次回から5回は田川紀久雄詩集『遠ざかる風景』を読みとり、赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた詩想は、3月16日から公開してゆきます。




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    Posted by 高畑耕治 at 19:30 │