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高畑耕治
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2014年03月30日

赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」(八)生のいとおしさ、厳粛さ

 敬愛する歌人、式子内親王(しょくしないしんのう)の詩魂を、赤羽 淑(あかばね しゅく)ノートルダム清心女子大学名誉教授の二つの論文「式子内親王における詩的空間」と「式子内親王の歌における時間の表現」を通して、感じとってきました。今回が最終回です。

 論文「式子内親王の歌における時間の表現」に呼び覚まされた私の詩想を記します。
                                          
◎以下、出典からの引用のまとまりごとに続けて、☆記号の後に私が呼び起こされた詩想を記していきます。
 和歌の後にある作品番号は『式子内親王全歌集』(錦仁編、1982年、桜楓社)のものです。
(和歌の現代仮名遣いでの読みを私が<>で加え、読みやすくするため改行を増やしています)。

◎出典からの引用1
(六の続き)

   ながめつる今日はむかしになりぬとも軒ばの梅は我をわするな  210(新古今・春上 五二)
  <ながめつる きょうはむかしに なりぬとも のきばのうめは われをわするな>

この歌は正治百首のもので、先にあげた

   いまさくら咲きぬと見えてうすぐもり春にかすめる世のけしきかな  210
  <いまさくら さきぬとみえて うすぐもり はるにかすめる よのけしきかな>

と並んでいる。作者の死の前年の作である。「眺めつる今日」が昔になるということは、自分が死んでしまって今のことが過去になってしまうことである。「眺めつる」の「つる」は完了のあとの存続を表わす助動詞で、過去からずっと眺めつづけ、今も眺めているということであろう。「今日はむかしになりぬ」の「ぬ」も完了を表わす。現在をさらに過去化してみようとするのである。

 このような意識の流れにおいて捉えられる心理的時間は、相対的なものであり、有限なものである。「軒ばの梅」はそのような存在である自分よりも命が長い。その梅に「我をわするな」と呼びかけるのである。
 
 作者は梅の木を眺め、梅の木から眺められている自分を感じつづけてきた。梅の木にたえず語りかけ、おのれの心中も明かして来たであろう。いわば共生感をもってともに生きて来た梅の木に自分の死後を託そうとするのである。これも有限な時間からの超出とみてよいだろう。(出典引用1終わり)

☆ともに生きて来た梅の木に
 式子内親王の「ながめつる」の歌は、静かに、けれどとても強く心に響いてきて、忘れられなくなる歌です。それはなぜなのか、赤羽淑は、歌に込められふるえやまない内親王の思いを感じとり、とても丁寧な言葉で伝えてくれます。
 この歌には死への想い、死後への想いが、悲しく染み入っています。赤羽淑の次の言葉は、内親王の告白の声のように聞こえます。

 「眺めつる今日」が昔になるということは、自分が死んでしまって今のことが過去になってしまうこと。
 「軒ばの梅」はそのような存在である自分よりも命が長い。その梅に「我をわするな」と呼びかける。
  共生感をもってともに生きて来た梅の木に自分の死後を託そうとする。

 はるかな死後の永遠が、歌う「今」に流れ込んでいる、限りない悲しみの深さと、自分の短いけれどもかけがえのない生の時間をすぐそばでともに生き、心の会話を続けてきた、梅に、「我をわするな」、「わたしをわすれないで」、とうたいかけるこの言葉の姿にこそ、まぎれもなく、式子内親王の詩魂が込められているからこそ、いつまでも響きやまない、美しく愛(かな)しい歌の花が咲き続けてくれるのだと、私は感じます。

◎出典からの引用2

 このような共生感が根底にあるからこそ、

   今はとてかげをかくさんゆうべにもわれをばおくれ山のはの月  153(玉葉・雑五 二四九三)
  <いまはとて かげをかくさんゆうべにも われをばおくれ やまのはのつき>

と言い切ることができるのである。自分の最後のときもこのようにして自分を見送ってほしいと山の端の月に呼びかけている。

 自分の命の限りあるのに対して月は無限の存在である。その月に自分は今眺められていることを感じているからこのような歌を詠むことができるのではなかろうか。月の永遠性の中におのれのはかない生を同化させようとしたのであろう。永遠の時間をもつ月によって眺められている自己を意識する瞬間に、現実の時間を超出し、未来の時間を先取りすることができたのである。

 過去を潜在させ、未来を予持することのできる「今」は、それゆえ限りなく意味あるものとして眼前に立ち現われる。われわれはこれらの歌から無常感を感じるというより、生のいとおしさ、厳粛さのようなものを感じることができるのではなかろうか。(出典引用2終わり)

☆月の永遠性の中に
 赤羽淑がこの論文の最後に引いた式子内親王の「今はとて」の歌、ここにこれ以上ふさわしい歌はないと、私は思います。赤羽淑のいう、梅との、月との「共生感が根底にあるからこそ」、式子内親王の歌は、心を揺り動かします。

 内親王は生きていた時間ずっと、梅と、月と、ともにいると感じ、話しかけ話しかけられ、生きていました。梅や桜や月と話せる人が詩人です。だれもが無意識に詩心でしている、梅や桜や月との会話を、言葉にすくいあげ歌うのが詩人です。だれもがその歌に共感し心ゆれるのはそのひとの心も同じように話していることに気づくからです。

 「自分の最後のときもこのようにして自分を見送ってほしいと山の端の月に呼びかけ」、歌う内親王の歌は、誰もの心にひそやかに息をしている、悲歌です。内親王が言葉でその詩心を掬いあげふるわせるとき、それは、美しい、強く心をうつ、絶唱にまでたかめられました。

 内親王だからこそ言葉にできた「われをばおくれ山のはの月」という呼びかけは、とても優しく響きます。月のひかりのように。内親王がいつも月と会話していた密やかさで。

 赤羽淑が最後に書き記した言葉は、詩、歌、詩歌が、人間にとって、どのようなものであるのか、文学を愛する心がどのような姿であるのかを、静かに教えてくれます。

  過去を潜在させ、未来を予持することのできる「今」は、それゆえ限りなく意味あるものとして眼前に立ち現われる。われわれはこれらの歌から無常感を感じるというより、生のいとおしさ、厳粛さのようなものを感じることができるのではなかろうか。

 詩歌は、過去も未来も、今このときに響かせることができます。永遠の彼方まで馳せた想いを今ここで生きることができます。
 歌うこと、歌を感じることは、花や月や想うひとを、ともに生きてきた時を深く感じて、愛しつくすことそのものです。
 いのちを、いとおしく、厳粛に、感じて。美しく、愛(かなしく)、ふるわせ。

出典:赤羽淑「式子内親王の歌における時間の表現」『古典研究10』1983年。


 次回は、詩想(五)です。





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    Posted by 高畑耕治 at 19:30 │