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高畑耕治
高畑耕治

2014年05月16日

『詩学序説』新田博衛(二)抒情詩の言いがたい魅力の源泉

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回は、抒情詩についての考察の続きです。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。
ふだんはたんなる約束事にすぎない言葉の音声が、抒情詩ではにわかにその比重を増してくる。心情の微妙な陰影をあらわすのに音声が重要な役割を演じるからである。したがって、たとえば外国語の詩を読むような場合、翻訳ではじつはどうにもならない。音声は翻訳によってもっとも消えやすい部分だからである。これにたいして、小説は翻訳によっても損なわれない。それは傷ではあっても致命傷ではない。そこには言葉の対象的意味がなお生きているからである。     ●出典の引用終わり。

◎抒情詩にとって言葉の音声、響きが「心情の微妙な陰影をあらわすのに」「重要な役割を演じる」のは、著者が述べるとおりであり、「外国語の詩を読むような場合、翻訳ではじつはどうにもならない。音声は翻訳によってもっとも消えやすい部分だからである。」、私もこのように思います。逆に、容易に翻訳できてしまう言葉は散文であり詩歌としての魅力と豊かさに欠けているとも言えます。萩原朔太郎もそうですが、言葉の音楽、調べに鋭敏な詩人、歌人はこのように感じ、考えていると私は思います。
 そのうえで、私も日本語に翻訳された海外の詩を読み、好きなのは、その作品は、詩人の原作を源にした翻訳者との共同作品、翻訳者の創作、と考えているからです。心に響く翻訳詩の翻訳者は、原語の響きを母国語へ移すことは不可能だと知っているからこそ、母国の言葉でこそできる音声表現を生みだし響かせます。日本語で書かれながら音声に鈍感な作品が多いなかで、逆に翻訳詩の言葉の音声が美しく感じられたりするのは、そのためだと私は思います。

●以下は、出典からの引用です。
小説を読むことにくらべて、詩を読むことには本質的な難かしさが含まれている。外国語の場合にかぎらない。たとえ自国語で書かれていても、抒情詩はやはり読むのに骨が折れる。ここでは言葉がふだんとまったく違う使われ方をしている、ということが、もちろん理由のひとつである。これについてはもう繰り返し説明するまでもないであろう。
対象的意味を剥奪された言葉はふだんと変わった使われ方をするよりほかはない。単語と単語との特異な組み合わせ、日常には見られないような珍らしい語法、音声とリズムの微妙な変化。どれを採ってみても言葉にたいする極度の敏感さを要求するものばかりである。    ●出典の引用終わり。

◎前回も書きましたが、この点については、私は楽天的です。著者の言うとおり、「対象的意味を剥奪された言葉はふだんと変わった使われ方をする」「単語と単語との特異な組み合わせ、日常には見られないような珍らしい語法、音声とリズムの微妙な変化。どれを採ってみても言葉にたいする極度の敏感さを要求する」のは、確かです。
でも「言葉にたいする極度の敏感さ」を厳しく要求されるのは、詩人自らに対してであって、優れた作品は、そのような厳しい痕跡は残さずに、読者が自然に読むうちにふだん眠っている感受性、言葉にたいする敏感さを、揺り起こし、気づかせてくれるものだと思います。一見して読者を拒む難解さを押し付ける言葉は、(現代詩にありがちですが)、一読者としての私にとり不快で、稚拙なだけで、優れた詩だとは思いません。良い音楽、良い絵画が、開かれていて、心を選ばないのと同じです。

●以下は、出典からの引用です。
しかし、こうした敏感さを十二分にそなえた読者にも、いぜんとして詩は難物である。抒情詩は詩人の魂という底なし沼の上に浮かんでいるからである。これが第二の、そしておそらくはさらに本質的な理由である。小説はなんといっても言葉だけで完結した、フィクションの世界である。事実の世界との関連はいっさい虚構の語り手がいて防いでいる。いかに複雑難解をきわめた小説もこの枠内では等質であり、そのかぎり一語もあまさぬ透明な理解が期待できる。
 抒情詩のほうはそうでない。外からみればいかにもきっちり纏まった閉じた世界でありながら、内へはいればその底はすっかり抜けている。下には生ま身の人間の心情という深淵が大きな口をひらいて待ちかまえている。これを理解しつくすことは不可能であり、いかに必死の努力を重ねても、いや、努力を重ねればかさねるほど、詩はつねに不透明な箇所を残してゆく。これが抒情詩の本質的な難解さの原因である。そして、それがまた抒情詩の言いがたい魅力の源泉ともなっているのである。
 抒情詩の本質がすべてをいったん詩人の心情に内面化するところにあるとすれば、小説の本質はすべてを現前化するところにある。つまり、小説の語り手は、対象をさながら眼前にあるかのように常にいきいきと描きだすのである。    ●出典の引用終わり。

◎著者はここで、抒情詩の本質を捉えていると、私は感じます。
「抒情詩は詩人の魂という底なし沼の上に浮かんでいる」。
「生ま身の人間の心情という深淵が大きな口をひらいて待ちかまえている。」
「抒情詩の本質がすべてをいったん詩人の心情に内面化するところにある」。
 だからもうこれは、人間性、人間同士の相性と深く関わってきます。詩人の資質と読者の資質が響きあえるものか、響きあえるなら人間同士なら底なしに深く共感できます。気づかずにいた、読者自身の感性、感受性、読者自身の言葉を見つけ「これは私の言葉」だと感じます。人間と人間が愛しあうことと同じです。
 相性、どこまでわかりあえるかは、出会ってみなければわかりません。まったく理解できない、心、人もどうしてもいます。共感まではできなくても、ある部分はわかる人もいます。
 だから私は、愛せる詩との出会いは、愛する人との出会い、運命にとても近いと思います。運命の出会いであるとき、詩の言葉は、恋文、ラブレター、大切なかけがえないものだと、気づきます。
 著者の言う、「抒情詩の言いがたい魅力の源泉」、汲み尽くせない、こころの、愛の、泉です。

●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。


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    Posted by 高畑耕治 at 19:15 │