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高畑耕治
高畑耕治

2014年05月27日

『詩学序説』新田博衛(六)新しい世界解釈。 “比喩”。

 前回に続き、新田博衛(にったひろえ、美学者、京都大学名誉教授)の著作『詩学序説』から、詩についての考察の主要箇所を引用し、呼び起こされた詩人としての私の詩想を記します。
 この美学の視点から文学について考察した書物は赤羽淑ノートルダム女学院大学名誉教授が私に読むことを薦めてくださいました。
 小説、叙事詩、ギリシア古典悲劇、喜劇、戯曲(ドラマ)を広く深く考察していて示唆にとみますが、ここでは私自身が創作している抒情詩、詩に焦点を絞ります。

 今回は、「比喩」が新らしい世界解釈であることについての考察です。●出典の引用に続けて、◎印の後に私の詩想を記します。読みやすくなるよう、改行は増やしています。

●以下は、出典からの引用です。

(略)サッポオは、断片九十六の中で、或る娘の儕輩(さいはい)に抜きん出た美しさを、星々にたいする月に喩えている。略)
  (大意)いまや、あの娘(こ)は、リュディアの女たちのあいだで、
  際立った存在です。ちょうど、日が沈むと、
  薔薇色の指をした月が
  すべての星を圧倒するように。

 ここには、二つの言表がある。「彼女は女たちの中で目立っている。」と、「月は星を凌ぐ。」と。両者が、「のように」(略)によって結びつけられているわけである。
 すべての言語表現は、ひとつの世界解釈であった。詩も言葉からその意味を奪うことができないかぎり、やはり一つの世界解釈であって、単に純粋な音の戯れではない。そうすると、ここには、言葉に定着された世界像が二つ、内容的にはまったく別々でありながら、やはり言語を媒介として一つに繋がれていることになる。
 ひとつの言語表現の背後には、かならず、その表現の原点があった。この場合の原点はサッポオという詩人自身であり、それは、二つの世界解釈に共通である。
 そうすると、ここに見られる、一つの言表から他の言表への唐突な飛躍の裏には、同一の原点の移動、ないし進展があることになる。両方の言表は、それぞれ、「彼女」と「月」という三人称を主語としているのであるから、もちろん、原点の存在は言表の表面にそのまま現われてこない。 
 これが、他の主語の存在によって覆われず、素直に顔を出すのは、どちらの言表にも属さない不変化詞(「のように」)においてである。「のように」の中に、サッポオの自我が直接に投影されているわけである。(略)    
 これが、サッポオの自我の屈折を反映して、表現エネルギーの収斂点となり、二つの世界解釈を自分のほうへ引きよせる。しかも、これら両方の世界解釈の各々において、文の統制力はすでに弛んでしまっているのであるから、諸々の語はそれぞれ勝手に(「のように」)へ向って移動を開始し、それぞれ自分と等質的な相手をみつけて、それと癒着する。
「彼女は目立っている。」(略)と「月は優越している。」(略)。「リュディアの女たちのあいだで」(略)と「すべての星に」(略)。
 かくて、当該の娘を“リュディアの月”とするような、第三の世界解釈が成立することになる。   ●出典の引用終わり。

◎著者は古代ギリシアの女性の抒情詩人、サッポオの詩行を見つめ感じとっていきます。サッポオは私も遥かに仰ぎ見て尊敬し愛する詩人ですので、作品に即したここでの著者の叙述は、私の心にとても響きます。
 まず、著者のいう次の言葉は大切だと私は思います。「すべての言語表現は、ひとつの世界解釈であった。詩も言葉からその意味を奪うことができないかぎり、やはり一つの世界解釈であって、単に純粋な音の戯れではない。」
 詩はもっとも音楽的な言語表現ですが、それでも言葉は「意味」をもち、世界解釈」であり、「音の戯れ」ではありません。日本ではモダニズム詩以降のいわゆる「現代詩」まで、言葉の「意味」と「世界解釈」であることを軽視し酷い者は蔑視し、無意味に戯れる流行がありますが、私はそこに本来の詩を感じません。

●以下は、出典からの引用です。
 しかしながら、この新らしい世界解釈はその成立の過程からみて、あきらかに前二者と性質を異にしている。前二者は、ひとまず文のかたちで提出されていた。言いかえれば、サッポオという原点から遠近法的に捉えられた世界像が、語の品詞機能を使って定着されていた。そこでは、自己還帰によっていちじるしく減殺されているとはいえ、表現主体のエネルギーが文と語の二元性を支えていた。
 第三の世界解釈においては、これに反して、表現を成立させているエネルギーは、原点からではなく、言語そのものから来ている。いわば、言語自体が勝手に動いて、「月」と「彼女」とを同一化してしまうのである。
 表現主体は語(「のように」)によって、この同一化への引金をひくだけで、あとの成行を言葉に任せている。サッポオが言語を操っているのではなく、言語が言語に物を言わせている。
もちろん、引金をひいたのはサッポオであり、語(「のように」)は、言表全体の内部で、副詞というまぎれもない品詞機能を果している。この意味では、新らしい世界解釈の成立も、前二者のそれと同じく、やはり言語表現の内部における出来事である。
 しかし、前二者が潜在的に含んでいた動向、文と語との二元性からの言語の離脱という動向を、第三のものは、顕在的にひとつの過程としてわれわれの眼の前に繰りひろげてくれるのであり、かくして成立した新らしい世界解釈を、われわれは“比喩”という特別の名で呼ぶのである。  ●出典の引用終わり。

◎「新しい世界解釈」、とても美しい言葉だと感じます。
 ここには、言葉が言葉を呼び合い、交わり、結ばれ、「第三の世界解釈が成立する」過程、詩の秘密とでも呼ばれるべきものが鮮やかに描き出されていてとても魅力的です。
 「新しい世界解釈」、新しく、視えてくるもの、初めてこの世界に感じとれるものが、言葉が紡がれ、詩句となり、詩となることで、生まれる。
 感受性、こころが、ゆたかになり、目が洗われるように、目覚めの朝のように、世界が新しくまぶしく、感じられる。
 だからこそ、詩は書かれ、読まれるのだと、私は思います。


●出典『詩学序説』(新田博衛、1980年、勁草書房)

 次回も、『詩学序説』をとおして、詩を見つめます。




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    Posted by 高畑耕治 at 19:15 │